難しい芸術

三大画家タイプとダダ運動タイプの美術
【アートの本格解説】

1 ゴッホの創造性と魔力性

芸術は創造です。よくある誤解ですが、絵が上手だから芸術なのではなく、創造性があるから芸術なのです。これが芸術の造詣の、イロハのイ。そして同時に、芸術の壁。

創造的な造形というものは、皆の記憶にない新種です。当然ですね。だから顔なじみなわけはありません。皆の知らない世界を展開しているのが創造なのだから、「あっこれ知ってる」とはなりません。「いつものやつだな」という、よしみがないのです。

「なんじゃそりゃ」「そんなもん知らんがな」という反応になって当たり前です。誰もがけげんな顔で見るはず。創造物が出てきたとたんに、みんなはしーんとなるはず。「これだこれだ」と大喝采したり、万歳三唱になるわけはありません。「待ってました!」という声は出ません。

知人に会えたような喜びは絶対に起きません。何が何だかわからないのが普通。安心できないのが創造。心を許せないのが創造。問題を感じたり、反発を感じる。全然いやされない。変に緊張を強いられたり、むしろ白けるのが創造の証しです。

創造に備わるこうした特性は、芸術の気持ち悪さと全く同じ現象なのか。そこは難しい問題だと感じています。

ゴッホの絵に魔力的なかげりが付加され、画面が陰の相を帯びたのは、作品が否定的な存在に向かったことと関係があるでしょう。要するに絵が全然ウケずに、さっぱり売れなかった当時の境遇が原因です。

なにクソ状態が続くうちに、売れっ子画家には届かない魔力性が焼き込まれたという解釈が妥当でしょう。ゴッホの生前にかろうじて評価したのは、一人の評論家だけでした。その時に、表現の多重性をほのめかす指摘がありました。

ゴッホがパリを離れると絵は明るくなり、内容は暗くなりました。陰陽のギャップが、パリからアルルへ引っ越して拡大しています。芸術の都から脱落したマイナスを契機に、ゴッホの絵の裂け目は激化しました。

2 エジプトの創造性と魔力性

古代エジプトのアート類を作った職人、ないしアーティストたちもまた、既成の概念を超えた造形を考案したのか?、という問題。ゴッホと似た反骨精神で、ツタンカーメンの調度品の魔力性が得られたのか。どうも、そこはつながらない気がします。

エジプトのアート類は同時代にウケなかったせいで芸術に届いた筋書きは、さすがに違うでしょう。エジプトとゴッホは、それぞれ異なる原因で魔力性を得たと著者は想像します。これは核心の問題です。

太古のアート類を、今の人たちが芸術鑑賞するのはやや困難です。今ゴッホの絵を見た同じ調子で、今エジプト美術でも感動を声にすることはあまりないはずです。両者は切り離されています。

太古の造形はもはやロストテクノロジーとなり、今となってはピンとこない。だから扱いも、美術品より考古学資料に分類されやすいほどで。

しかし「表現の裂け目」に着眼すれば、古代エジプトとゴッホのように時代が違う表現物も、同じ土俵に乗ります。断層は作風とは違うから、時代トレンドのフィーリングに惑わされずに、普遍的価値に素早く目が行きやすい。

「表現の裂け目」という特徴に続いて、「気持ち悪い」という特徴が芸術には備わります。ただし、「わー気持ちわるー」と声をあげる目立ち方ではありません。何となく軽い気色悪さや、いやな感じ、心に引っかかる軽度の不気味さ、憂うつ気分というものが、芸術作品にはあるのです。エジプトとゴッホはそこが共通します。

そうした曇ったような抵抗が感じられない、あっけらかんと透明な作品だと、人類の歴代芸術にランクしていません。最初はウケても、フェイドアウトするのでしょう。前回のおさらいがここまでです。ここから話は今の現代となり、意外な展開へと続きます。

3 気持ち悪さを揚げ足取りした現代アート

「気持ち悪いのは芸術だ」とくれば、「それなら現代にもあるぞ」という声も出てくるでしょう。気持ち悪い現代アートの候補にあがるのは、いわゆるグロアート類です。

代表的なのは、生き物の死体です。動物の死体を美術館に置いて見せる。強調されるのは、生体の解剖学的なイメージ。要するに赤い生肉類と内臓類にドキッとするインパクトにもの言わせ、生々しさと毒々しさを展示室で再現しています。高く売れる現代アーティストが欧米にいるらしいのですが。

あるいは目玉が飛び出した人体模型だとか、交通事故現場の損傷した身体を模した立体物。テロ現場で撮影した遺体写真を並べたり。舞台劇で、女性がステージ上で脱いで排泄する演目とかもあります。

その手のアート表現には、芸術の性質に対するリアクションを感じます。リアクション、つまり反動です。アクションではない、リアクションのアート。

「芸術は気持ち悪いものである」「感じ悪いものが真に芸術である」。そういうことだと前回に断定しました。すると、芸術のこの特徴を表す言葉を揚げ足取りした、反動型のアートが出てきます。そのひとつがグロアートです。

「気持ち悪いのが芸術だそうだ」「それならこれでどうだ?」と、グロテスクな物体を並べる。ナメクジとか。これでもか、これでもかと気持ち悪さをエスカレートさせていく。すると、一定数のファンはやはりできます。しかし、多くの観客は「いやだー」という反応になるでしょう。

その反応をみた作者は、こう胸を張ります。「印象派も登場時には、皆にいやがられたものだ」「だから、これは印象派並みに画期的だということ」。「歴史的な前衛芸術は悪者扱いされた」「悪者扱いされた僕らも、これで歴史的な前衛芸術だと証明できた」と。

その論法に、「うーん」と悩む方も多いのではないでしょうか。そういう持って行き方のアートは、いったいどう考えればよいのでしょう。

4 三大画家タイプとダダ運動タイプ

著者はそれを「ダダ運動タイプ」と分類しました。「芸術」に対抗させた「反芸術」という概念を想定したのです。数学でいう、実数に対する虚数「i」のようなものです。

これを理解するには、言語学的な抽象思考だけは必要です。たとえば「この絵画には謎がある」という言い方。ゴッホ絵画にみる表現の断層、陰陽の対立成分を考えます。

陰陽の二重性による裂け目が、芸術の謎の正体といえます。ゴッホの絵には分裂的な表現要素が幾重も含まれ、ぶつかっているから謎が多いのです。きれいだけど、えげつない色だとか。のどかな田園が、うず巻いていたり。画面内にチグハグがある。だから謎の絵です。

そんなゴッホを参考にして、「芸術には謎がつきものだ」というセオリーが新たに生まれます。謎がある絵を描けば芸術に到達できるという、次なる目標ができます。

次世代の画家たちは、絵に謎を盛り込めばよいわけです。当然、画家たちはそう努力します。すると、やはり現れるのです。次のような作品が。

ある平面作品が美術館の壁にかかっています。絵を見上げる観客たちは、その絵の謎に直面しています。絵をじっと見つめ、謎を解こうと考え込んでいるところ。

その絵の正体はクロスワードパズルです。縦横の空欄に入れる文字を考えるクイズ型のパズル。大型キャンバスにクロスワードパズルを転写してあります。確かに誰が見ても謎がある作品です。謎解きすべき絵。謎の絵が現る。

5 その何が変なのかを言えない鑑賞者

「でも、それって何か変じゃないか?」と思いますよね。「絵の謎って、そういう意味の謎なの?」という疑問がわきます。「それ絶対おかしいって」。

とはいえ、何がどう変なのかは簡単に言葉で示せません。言えそうな気がしても、うまく言えないみたいな。「ここがこうおかしい」とはスパッと言えないもどかしさがありますね。ならば引き下がるしかない?。

美術館の展示室でクロスワードパズルを解く。その謎解きを指して、『モナリザ』の謎の微笑みを読み解く鑑賞と同等に扱う。そういうのは何かがおかしいと思う人が普通でしょう。

でもおかしい理由を言おうにも、こんがらがってまとまりません。結局うまく言えません。『モナリザ』の謎があって、クロスワードパズルの謎がある。おかしい気がするし、おかしくない気もするし。

こうした「意味のずらし」に興じるアートを、著者は「ダダ運動タイプ」と定義しました。まず先に芸術の特徴が存在します。次にその特徴に適合させた絵をつくる、その時に次元をずらしてあります。

この手の自称アートは種類が多い上に、日本全体を染めて一世を風びした頃もあります。全国のギャラリーを埋め尽くしたのは、1980年代半ばでした。皆さんの記憶にもあるかも知れません。今は下火ですが。

6 それは三大画家が起点となった

歴史的な名画には、割り切れない不思議表現が多いものです。普通に見て首をかしげる奇妙な絵画たち、それが名画です。

近代スペインの三大画家、かつ近代美術の三大画家でもあるピカソ、ミロ、ダリの絵にも、やはりそれぞれに不思議があります。20世紀の世界的巨匠の絵も、また不思議です。摩訶不思議。19世紀のゴッホ限りではなくて。

ピカソは、あの正面顔に横顔がくっついた絵です。二方向から見た顔面を合成した、不思議な人物画です。独自に分解された人間離れした顔で、写実とは全然違う。

ミロは古代の呪文のような、抽象マークの絵が多い。「これは何ですか」に答えられないのがミロ絵画の不思議。ダリは写実具象ですが、偏執狂的というコンセプトで、ゾウの足がキリンより長かったりします。不思議なことに、時計がグニャリと溶けていたりして。

それらの不思議な絵を、「三大画家タイプ」と著者は呼んでいます。造形を見せるアートです。そんな三大画家を、後輩の画家たちは超えたいのです。新しい絵を、うんと不思議に描くにはどうすべきか。若い画家たちは悩みました。

一段と不思議な絵を新作すればよいのです。しかしキリンを象のように太っちょに描いても、今さら感がありあり。もっと奇抜なことで、何とか目立ちたい。

7 既成の概念の超え方をひねったら

そこで、ある発想の転換が多発したのです。だまし絵をキャンバスに描いて展示するというもの。そのだまし絵は、見つめていると目の錯覚が起きて、動いて見えるあれです。

可動部のない静止画。なのにモーターでも仕込んであるかのように、ゆっくり動いて見えます。図柄がぐるぐる回転するみたいに。見ているだけで目が回ってクラクラする絵です。

観客の目に錯視が起き、視覚的な錯誤が生じます。その錯誤が起きる不思議さを根拠に、「ミロも不思議ですが、これも不思議です」「両方とも不思議なので、両方とも芸術です」というわけです。

ピカソやミロは不思議な造形の絵です。その「不思議」「ミラクル」の言葉に引っかけて、うず巻き模様がぐるぐる動いて見える目の誤作動の不思議さ、めまいが起きるミラクルな生理現象で対抗した表現です。

あの不思議に対して、この不思議で応戦し、こっちがもっと不思議でしょと誇って。

そのような表現手段の何がおかしいかは、簡単に言い当てられません。「あっちは不思議、こっちも不思議、つまり同じなんだ」と思ってしまいますよね。「だってどっちも不思議なんだもん」と。

日本でも時々見かけませんか。トリックアート展というタイプを。芸術は不思議だというフレーズを、手品、奇術、マジック、イリュージョンの不思議さにずらしてあります。

8 現代アートは必ず二種類に分かれる

だまし絵タイプは、エッシャーが権威です。制作当時は相手にされず、後に「芸術には謎と不思議がある」の通念との親和性でよく通り、大ヒットしました。著者も図書館で本を借りたものです。

エッシャーのあの絵は元はデザイン系ですが、美術作品として解釈する時は「ダダ運動タイプ」です。芸術の魔力的な不思議ではなく、脳の認知機能の不思議で魅せています。

精神世界の不思議ではなく、知覚の不思議、神経の不思議、心理学の不思議です。だから美術よりも、心理学の本によくのっています。同じ「不思議」という言葉なのに、別の意味です。だけどどう別なのかを言おうにも、時間がかかるし字数も多くなり、説明するのもめんどうくさい。

「不思議な作品が芸術なんだろ?」「だったらどっちも不思議だから合ってるじゃん」「はい同等です」「全くいっしょー」。

ピカソやミロの不思議にピンとこない人も、だまし絵の不思議ならピンときます。目が回る刺激を全員が確実に受けて、置いて行かれる人はゼロだから。お客が大勢来てくれ、入場料収入もカタログ売り上げも良好で、美術館もやめる理由がありません。

特に日本では、芸術が何なのかはよくわからないまま放置されています。国民感情として、今すぐわかるものは何かないのかと、横へ横へとずれて行く傾向があります。芸術らしきものを、わかる範囲で探し回る最中というか。

その時、この次元ずらしだと手っ取り早く、お互いが落ち合える場所がつくれます。不思議の意味をずらした「ダダ運動タイプ」は、そのニーズにフィットしました。「そっちの意味かよ?」と疑う声もなく。

「芸術は不思議である」の結論に引っかけた、なんちゃってギャグだともいえるでしょう。別名トンチ。駄洒落や語呂合わせも多くあります。

しかも、「アートは自由だ」「人それぞれ」のリベラルなフレーズが、釘を刺しています。「それって違うんじゃない?」と固いことを言わせない風潮が、先に固まっていて。自由主義と呼ぶガチガチのルールが先にあるから、自由に文句が言えない。

9 現代アートを二つに大別した理由

著者が現代アートを「三大画家タイプ」と「ダダ運動タイプ」の二つに分けた狙いは、現代アートが苦手な人を減らすことでした。

現代美術へのわだかまりの多くは、もちろん作品を理解できないことが発端です。わけがわからない絵が発端です。ピカソやポロックが発端。

わからない絵の代表は抽象画で、シュールレアリスムもあります。未来派やロシア・アヴァンギャルドなども、意味不明の表現が多い。もっとも、そのあたりが現代アートの全てだとすれば、もっと単純な話になっていました。どれも見せ場が造形だから。

ところが、実際の現代アートは複雑になっています。「ダダ運動タイプ」が大量に流れ込んで来たから。たとえば次のような例です。

美術館の展示室へ入ると、何も作品がない。「絵も彫刻もないぞ」という状態。空っぽ。いったいどういうことなのか、今日の展示会は中止になったのかと、観客同士が顔を見合わせます。

「観客のその顔が僕の作品です」というアート表現なわけです。時には観客の顔をインスタント写真に撮って、壁に貼ってはい完成ですと。展示物なんか最初からない。

作者は、人の生の顔が最も芸術的だというコンセプトを立てていたのです。このアイデアは世界初だ。前例がないから創造なのだと。

これが「ダダ運動タイプ」の現代アートの、よくあるパターンです。この要領で既成の概念を超えて、一番乗りの斬新を競います。

10 現代アート混乱のしっぽをつかまえる

現代アートはわけがわからないという、日本にも充満する声。その声を聞いていると、二種類のタイプを分けて考えないせいで、起きた混乱が多いことに著者は気づきました。二種類あるのに、一種類のつもりでいる失敗です。

顔の横に顔が見えるピカソの不思議と、ぐるぐる回って見えるだまし絵の不思議を、分けずに考えるからおかしくなります。ポロックがペンキをまき散らす意味不明と、画家が観客の顔を撮る意味不明を、くらべるから噛み砕けない。

「美術館に展示したミロの絵」の意味がわからない。「美術館に展示した古着」の意味がわからない。この二つの作品は、「意味がわからない」が意味する次元が違います。違う次元で意味を検証しても、意味がないでしょう。

「難解なさし絵」のテーマで討論する二人。一人はマックス・エルンストの絵画論の難解さ、一人はマックス・プランクの量子論の難解さが念頭に。討論は収束しません。

スケールが大きい彫刻だと聞いて見に行くと、寸法がとても大きかったという。ジャイアント馬場はスケールが大きい人だという。何しろ身長209センチ。「そっちの意味のスケールかよ」。

これらの混乱は現代アートのイメージアップよりも、むしろイメージダウンのタネです。アート全般に対する不信の根っこのひとつです。しかも、それだけでは済んでいません。

11 二種類に分けないから不安がふくらむ

全ての現代アートは「三大画家タイプ」か「ダダ運動タイプ」か、どちらかに分けられます。混ぜて考えるのをやめて、分けて考えることを著者は提言しています。

分けて考えないと何が起きるか。現代アートへの不安が、絶望へと突き進みやすいのです。

自由奔放が秩序破壊として広がっていくと、誰もが不安や圧迫や脅威を感じます。あれもアート、これもアートと、好き勝手が横行することへの被害意識がふくらみやすい。

わからん、わからん、わからん、わからんと、頭の中がパンクして。「現代アートなんてもうたくさんだー」と、追い込まれていく国民が増えるのです。

20世紀前衛美術に関してよく聞いた評論は、「我々の時代のアートは何と虚しいのか」の言い方でした。現代美術、コンテンポラリーアートには、虚無感というキーワードがつきものです。虚無のアート。うつろな美術が席巻した現代。

ルネッサンスのミケランジェロ、近世のベラスケスやルーベンス、アングルとドラクロワなどの高貴で壮大な絵にくらべて、現代アートは手抜きで安っぽく、あざといという疑問と不信です。

思いつきのアイデアでポンポーンと手っ取り早くでっち上げた、使い捨てのインスタント作品群。「僕たちの時代は、ずさんなインチキアートを押しつけられている」という被害感情は、日本にもかなり広まっています。世界的にも多い感想です。

国内に現代アートの普及活動があります。しかし美術家ファーストがネックで、成果はあがらず。作家が「正」で一般人が「誤」の前提だから、普及でなく布教になりがち。庶民の界わいでアートが一般化せず、特殊化の輪に引き入れる活動になりやすい。

12 現代アートなんか消えてなくなれ

部外者が美術に混乱した感情は、ついに破裂して美術に絶望を感じます。現代アートに死刑を言い渡したり、時計を昔に戻そうと本気で訴えた主張も見かけます。

現代アートは迷惑だから地球上からなくなれと、一途な思いで告発しているネットサイトが複数あります。救世主に成り代わって、正義感に燃えた世直しを始めて。

日本で近年みる現代アートフェスティバルは、よく郡部や離島で開催されますよね。自分の身近で現代アート展なんて、あまりやって欲しくない気分への忖度?。

しかも一般人に限らず美術家の中にも、アートの自由奔放はあまりに過度で問題だという意見が多いのです。美術業界人も、現代美術の無秩序に懸念を感じています。

自由をいくらでも許した結果、わけがわからない混沌状態となり、時には現実的なトラブルもあるから。行き過ぎた自由への戒めを呼びかける声は、美術作家側からもしばしば出ます。

アートの自由をそろそろ制限すべきではという問題の立て方も、折々に目にします。それが目立つひとつは、わいせつ系でしょう。

わいせつ物陳列罪になるような公序良俗に反するものをアートと称する、アダルト目当ての客商売がよくあるからです。エロ目的なのに芸術目的を装った、虚を突いた自称アートです。いわゆる「アート無罪」と呼ばれる典型例。

そうした行き過ぎた自由や、何でもありの表現手法には、美術業界人も批判的です。作るプロにとっても、やり過ぎた作品は不快。いたずらに広がった多様性は、騒々しくてつき合いきれない。何でもかんでも全てアートだという風潮で、もはや目ざわりな過剰表現となっている。

もう野放しにできない、行き過ぎたカルト的な自由を制限すべきではという、アーティストの声が広がっています・・・

13 現代アートの造詣はたったひとつ

・・・このように、行き過ぎた自由を是正すべきだとする、現代アート批判や反省が増えています。

それに対して、著者は全く賛成できません。この問題は、表現の自由の大きい小さいではないからです。手法が広がり過ぎた「程度の問題」とは、全然違う話だから。

行き過ぎなどと、ボルテージの高低で調節すべき対象ではない。手加減や微調整による改善は、関係ない話。過度な自由表現をつつしみ、適度な自由表現に改めるべきだ式の、ひかえめなアートを歓迎する発想は違う、それが著者の判断です。

どの作品のどの自由を、何パーセント削減する規制なら、現代アート被害者の会は納得するのでしょう。やり過ぎた表現とは、どの作品のことでしょう。

単純な話です。全部で二種類ある現代アートを、全部で一種類だと皆さん思っています。だから次元のずれに虚を突かれ、激しくかき乱され、現代アートがモンスター化して襲ってくる脅威にブルッてしまうわけです。

「二重の顔」と「図形ぐるぐる」は別次元の不思議だから、分けて考えるのがコツです。『モナリザ』の謎と、『クロスワードパズル』の謎の、どちらの謎が心を豊かにして人生に花を添えるか、新しい文化創造や育成に寄与するか、考えるだけ無駄です。

紙と神を区別せずに、カミの偉大さを言う授業みたいな感じ。当然、生徒が理解する難易度は上がり、授業難民が続出するはず。

14 あのブラックボックス展も簡単な話

ダリが描いた「キリンが燃える驚き」と、『ブラックボックス展』の「暗闇で体を触られる驚き」も同様です。確かにいずれも「驚き」という同じキーワードですが、別次元の驚きだと気づけば話はもつれないでしょう。

驚きつながりで、どちらもアートなんだ、芸術同士なんだ。だって芸術って予想を超えた驚きがあるんでしょ。びっくりさせるもんでしょ。ともにサプライズしてるし。

これでは無駄に話がからまり、気も重いだけ。リアルタイム体験者は、ショックで声が出そうになったと。そこまで一字一句がぴたり一致しても、両者につながりがない点にご注意。

どちらも既成の概念を超えた、奇想天外なお騒がせアートです。どちらもあってはならない事態で、許し難い。でも次元が違うから、混ぜるな危険。両者をしれっと同類項でくくるから、自由表現に迫害される不安にさいなまれ、アートはこの先どこまで行くのだろうかと怖い未来を感じるのです。

怖くなって世直しを思い立ち、斬新を排除し古典回帰を唱えるのは、間違った騒ぎ方です。現代アートは二種類あるのに、一種類だと誤認して起きたパニック。

『燃えるキリン』の絵は「三大画家タイプ」で、『ブラックボックス展』は「ダダ運動タイプ」です。『燃えるキリン』は芸術で、『ブラックボックス展』は反芸術です。『燃えるキリン』はアクション、『ブラックボックス展』はリアクション。

フランスの評論家ボードリヤールは、一種類の前提で話を組み立てたせいで、世界の現代アーティストたちに真意が伝わらなかったのでしょう(ボードリヤール著『芸術の陰謀-消費社会と現代アート』)。

現代アートの最大のポイントは、芸術に対して反芸術という概念が世界に広がっていること。自由度が上がったのではなく、話がずらされている。シャレの世界。現代アートに限って、大きく二種類に分かれています。一種類ではなく、二種類。

現代アートは二種類ある。だからひとまとめに語れない。この造詣を心得るだけで、従来の憂うつな胸騒ぎや被害感情は薄れて、アート全般を見直す気持ちの余裕が、数日で取り戻せるはずです。長くて21日。

するとあら不思議、現代アートは片寄っています。意外に右にならえで、尻取りふうに連鎖していると気づくのです。いかにも同じ時代の産物同士で、感覚がむしろ似過ぎ。親せきみたいな作品群。自由奔放で何でもありの、全方位まんべんなく万能に思えたのは、不安心理で生じた錯覚でした。(つづく)(2018年7月11日)