難しい芸術

三大画家タイプとダダ運動タイプのアート(2)
【アートの本格解説】

5 その何が変なのかを言えない鑑賞者

「でも、それって何か変じゃないか?」と思いますよね。「絵の謎って、そういう意味の謎なの?」という疑問がわきます。「それ絶対おかしいって」。

とはいえ、何がどう変なのかは簡単に言葉で示せません。言えそうな気がしても、うまく言えないみたいな。「ここがこうおかしい」とはスパッと言えないもどかしさがありますね。ならば引き下がるしかない?。

美術館の展示室でクロスワードパズルを解く。その謎解きを指して、『モナリザ』の謎の微笑みを読み解く鑑賞と同等に扱う。そういうのは何かがおかしいと思う人が普通でしょう。

でもおかしい理由を言おうにも、こんがらがってまとまりません。結局うまく言えません。『モナリザ』の謎があって、クロスワードパズルの謎がある。おかしい気がするし、おかしくない気もするし。

こうした「意味のずらし」に興じるアートを、著者は「ダダ運動タイプ」と定義しました。まず先に芸術の特徴が存在します。次にその特徴に適合させた絵をつくる、その時に次元をずらしてあります。

この手の自称アートは種類が多い上に、日本全体を染めて一世を風びした頃もあります。全国のギャラリーを埋め尽くしたのは、1980年代半ばでした。皆さんの記憶にもあるかも知れません。今は下火ですが。

6 それは三大画家が起点となった

歴史的な名画には、割り切れない不思議表現が多いものです。普通に見て首をかしげる奇妙な絵画たち、それが名画です。

近代スペインの三大画家、かつ近代美術の三大画家でもあるピカソ、ミロ、ダリの絵にも、やはりそれぞれに不思議があります。20世紀の世界的巨匠の絵も、また不思議です。摩訶不思議。19世紀のゴッホに限る話ではなくて。

ピカソは、あの正面顔に横顔がくっついた絵です。二方向から見た顔面を合成した、不思議な人物画です。独自に分解された人間離れした顔で、写実とは全然違う。

ミロは古代の呪文のような、抽象マークの絵が多い。「これは何ですか」に答えられないのがミロ絵画の不思議。ダリは写実具象ですが、偏執狂的というコンセプトで、ゾウの足がキリンより長かったりします。不思議なことに、時計がグニャリと溶けていたりして。

それらの不思議な絵を、「三大画家タイプ」と著者は呼んでいます。造形を見せるアートです。そんな三大画家を、後輩の画家たちは超えたいのです。新しい絵を、うんと不思議に描くにはどうすべきか。若い画家たちは悩みました。

一段と不思議な絵を新作すればよいのです。しかしキリンを象のように太っちょに描いても、今さら感がありあり。もっと奇抜なことで、何とか目立ちたい。

7 既成の概念の超え方をひねったら

そこで、ある発想の転換が多発したのです。だまし絵をキャンバスに描いて展示するというもの。そのだまし絵は、見つめていると目の錯覚が起きて、動いて見えるあれです。

可動部のない静止画。なのにモーターでも仕込んであるかのように、ゆっくり動いて見えます。図柄がぐるぐる回転するみたいに。見ているだけで目が回ってクラクラする絵です。

観客の目に錯視が起き、視覚的な錯誤が生じます。その錯誤が起きる不思議さを根拠に、「ミロも不思議ですが、これも不思議です」「両方とも不思議なので、両方とも芸術です」というわけです。

ピカソやミロは不思議な造形の絵です。その「不思議」「ミラクル」の言葉に引っかけて、うず巻き模様がぐるぐる動いて見える目の誤作動の不思議さ、めまいが起きるミラクルな生理現象で対抗した表現です。

あの不思議に対して、この不思議で応戦し、こっちがもっと不思議でしょと誇って。

そのような表現手段の何がおかしいかは、簡単に言い当てられません。「あっちは不思議、こっちも不思議、つまり同じなんだ」と思ってしまいますよね。「だってどっちも不思議なんだもん」と。

日本でも時々見かけませんか。トリックアート展というタイプを。芸術は不思議だという往年のフレーズを、手品、奇術、マジック、イリュージョンの不思議さにずらしてあります。

8 現代アートは必ず二種類に分かれる

だまし絵タイプは、エッシャーが権威です。制作当時は相手にされず、後に「芸術には謎と不思議がある」の通念との親和性でよく通り、大ヒットしました。著者も図書館で本を借りたものです。

エッシャーのあの絵は元はデザイン系ですが、美術作品として解釈する時は「ダダ運動タイプ」です。芸術の魔力的な不思議ではなく、脳の認知機能の不思議で魅せています。

精神世界の不思議ではなく、知覚の不思議、神経の不思議、心理学の不思議です。だから美術よりも、心理学の本によくのっています。同じ「不思議」という言葉なのに、別の意味です。だけどどう別なのかを言おうにも、時間がかかるし字数も多くなり、説明するのもめんどうくさい。

「不思議な作品が芸術なんだろ?」「だったらどっちも不思議だから合ってるじゃん」「はい同等です」「全くいっしょー」。

ピカソやミロの不思議にピンとこない人も、だまし絵の不思議ならピンときます。目が回る刺激を全員が確実に受けて、置いて行かれる人はゼロだから。お客が大勢来てくれ、入場料収入もカタログ売り上げも良好で、美術館もやめる理由がありません。

特に日本では、芸術が何なのかはよくわからないまま放置されています。国民感情として、今すぐわかるものは何かないのかと、横へ横へとずれて行く傾向があります。芸術らしきものを、わかる範囲で探し回る最中というか。

その時、この次元ずらしだと手っ取り早く、お互いが落ち合える場所がつくれます。不思議の意味をずらした「ダダ運動タイプ」は、そのニーズにフィットしました。「そっちの意味かよ?」と疑う声もなく。「それ別の意味だよ」と誰も言い出せない。

「芸術は不思議である」の結論に引っかけた、なんちゃってギャグだともいえるでしょう。別名トンチ。駄洒落や語呂合わせも多くみられます。

しかも、「アートは自由だ」「人それぞれ」のリベラルなフレーズが、釘を刺しています。「それって違うんじゃない?」と固いことを言わせない風潮が、先に固まっていて。自由主義と呼ぶガチガチの硬質なルールが先にあるから、自由に文句が言えない。