難しい芸術

表現の裂け目と気持ち悪さが芸術の証明(1)
【アートの本格解説】

1 芸術という語の使い方は主に二つある

芸術という語は、どういう意味で使われているのでしょうか。ひとつはカテゴリーです。

たとえば高校の授業には芸術という「教科」があり、その中に美術と音楽と書道などの「科目」があります。どれかひとつ履修し、2年続けるのが普通でした。「高校の時の芸術は音楽をとったよ」という使い方です。芸術はカテゴリーの総称です。

芸術カテゴリーの中にある各ジャンルは、美術と音楽と書道以外にもあります。映画や生け花や落語や漫才も芸術です。ただ映画は特別なジャンルですが、生け花は一般的には「芸道」の一種とされ、落語や漫才は「演芸」に入ります。

生け花などは型の模倣が中心になりやすく、自由度が少ないとされるせいで、便宜上分類を分けたのでしょう。芸道や演芸は、芸術とは別カテゴリーというわけです。

芸術の語のもうひとつの使い方は、ほめ言葉としての形容詞的な用法です。創作表現物の中でも、よくできた逸品を呼ぶ称賛の意味で、「これはまさに芸術である」などと、たたえた言い方をよくやります。

ということは、美術品を作っただけでは、自動的に芸術的になるとは限らない前提があるのです。芸術作品と呼ぶには、何かをクリアしないといけないわけで。芸術に届いた美術もあれば、届かなかった美術もあるという分け方です。

この場合の芸術は、「天気」という言葉とも似ています。天気の中に晴れ、曇もり、雨、雪などがあり、「今日は天気だ」と言えば晴れを指します。雨天の場合は「今日は天気じゃない」などと。

「この絵は芸術じゃない」の言い方も似て、一応芸術カテゴリーの一員たる絵画ではあっても、内容がショボいから芸術には値しないという意味が込められます。

2 現代人は現代美術がわからない?

芸術的であるとは具体的にどういう意味かは、ほとんどの美術関係書に書いてありません。口で言う人もまれです。

「この絵画は芸術だ」と言う、その芸術の内訳は何なのか。よくわからないまま世の中が回っています。この不合理な空白は、多くの方がとっくに気づいているでしょう。

ネットによく出ている美術の話題に、「現代美術はわからない」という悩みがあります。悩みの相談に答えるサイトもあります。その多くのアドバイスは、「この作品はこう見るべし」とか、「ゆるい気持ちで見よう」のハウツーになっています。

作品一個一個の優れた点を覚えて回るか、何でもありのおおらかな態度に変えるか。これら二とおりの解決法がよくみられます。「名画名作の鑑賞のしかた」か、または「偏見をなくせばアートは楽しい」式の二とおり。

「芸術とはこうこうである。それを基準として、共通するものが作品にあるかを見よう」など、的を絞ったアドバイスは見たことがありません。

ところが、個別の作品ごとに美点を習得する解決策だと、一人の鑑賞者がわかる作品は狭い範囲にとどまります。普通は誰でも、勉強時間がそんなにとれないからです。

しかも今できた新作は美点が決まっていないから、常に理解の対象から外れます。情報がまだない近年の美術、コンテンポラリーアートも鑑賞不能になります。印象派などの古典は楽しいが、ポロックなどの現代系は苦手という人の多さも、一部はこれでしょう。

一方の、何でもありだから何でも許そうという解決策は、人間の脳の高いはたらきにさからっていて、実は現実的ではないのです。身近にいやな人がいる場合に、いやだと思わないようにしようという解決策と同じで、感情を持つ人間には無理です。聖人君子向け。

3 現代人が芸術に親しみにくい発端

芸術の正体をずばり言う人が世に少ない理由のひとつに、西洋文明の限界があります。

近年の日本人が学んできた美術は西洋が中心で、学校の教科書も本命は西洋美術です。西洋美術は西洋以外とは大幅に異なります。この根っこの問題があるのです。

西洋美術の見せ場は、非西洋美術の見せ場と全く異なります。だから西洋美術に入れ込めば、非西洋とは遠くなります。豊富なスタイルがあるのに特定スタイルにべったりになる、出発点のつまずきが延々と響いているわけです。

芸術の定義があいまいでルーズなのは、美術が自由奔放な衝動だからではありません。西洋と非西洋の違いが解釈の中で埋まらず、つじつまが合わないグレーゾーンが広大に残ってしまう西洋文化問題なのです。

たとえば芸術的絵画の最高峰のひとつ、ゴッホの『ひまわり』で考えます。これを言葉の限り称賛したとします。「原色がきらめいている」「筆タッチが強烈だ」「絵具の盛り上がりが生き生きしている」「デッサンも悪くない」「兄弟愛で支えた800枚以上の油絵」「さすが58億円」。

それらの言葉を『奈良の大仏』の称賛にも使えるか、考えてみてください。うまくいきませんよね。そこで人類は、『ひまわり』のほめ方と、『奈良の大仏』のほめ方を、別々に勉強して記憶し、ウンチクを語る方向で決着させています。

その現状に従い、『奈良の大仏』を称賛する言葉を習得したとします。すると、鉄道駅に飾ってある『生け花』を見ても、全く言及できません。

それならと『生け花』のほめ方を習得したら、次は『前衛生け花』がお手上げです。生け花の美点を壊したのが前衛なので、応用がきかずに腹が立ったりします。

さて、もう一方の「何でも自由だから自由に見よう」。これは意外に壁をつくります。「芸術って色々あるから、ただ無心に素直に見ればよいのさ」「好き嫌いがわかれば十分でしょう」式の流れに陥るでしょう。

好き嫌い優先はそもそもヘイトへ至る元凶だし、いつの間にか右にならえになっていくはず。第一、「芸術とは何か」が空白のまま終わる人生は、高等教育が行き渡った日本では意外に心の負担ではないかと。わかっていない人に分類されてしまう不安も残るし。

4 芸術の意味までが多様化するのは変

著者はまず、ジャンルによって芸術性が異なったり、逆の意味になったり、作品の一個単位で目のつけどころが全く違うのはおかしいと考えました。そこに自由奔放の概念やリベラルな権利意識、人それぞれ式のラフな解釈を当てはめたらおかしいと。

白と黒の、どちらも白と呼ぶルーズさはおかしい。白を塗るのは自由だし、黒を塗るのも自由。でも、塗られた両方を白と呼んではおかしい。その呼び方は好きずきではないはず。表現の自由はそこじゃない。

そんなルーズさに、ビギナーは美術界のずさんさを読み取るはずです。アート入門のハードルどころか、拒む壁みたいなもの。ジャンル丸ごと崩壊したみたいで、おもしろそうな世界に見えません。普通の人の意識に配慮した状態ではないような。

「だって何でも自由だから」とか、「マジにならずゆるーく考えよう」というのは、芸術に敗れたみたいな気がしています。制作の手法が多様化して盛大に幅があり、ぶれるのは当然あってよいとしても、核心の真理はいちいちぶれない方が本当だろうと。

「世の何もかも、全てが芸術なのです」というハメ外しはどうも変です。そこさえ何だっていいというのは、さすがにおかしいだろうと。「そこは空気を読もう」ではいけない、大事な要(かなめ)だから。