難しい芸術

表現の裂け目と気持ち悪さが芸術の証明(2)
【アートの本格解説】

5 古今東西の作品をチェックしてみると

そこで著者はまず、人類の太古のアート類を調べました。さらに古代、中世、近世、近代を点検して、いったいどういう表現物が時の審判を経て、現代に伝えられているかを調べました。百年以上たてば、人々の目にどれが傑作と映るのか。人類が何を名作に選んできたか。

昔から言われてきた「芸術は創造である」は、もちろんすぐわかります。前例と違うことをやったので、エポックと認定されるのはわかりきっています。二番煎じはだめ。しかしこの事務的な記録以外に、まだ何かがあるはずなのです。

ここで大事なことは、西洋美術と日本美術以外、G7国以外をよく点検することでした。

たとえばアメリカの美術といえば、『マリリン・モンローの顔』のアンディー・ウォーホルなどを浮かべます。さかのぼるとベン・シャーンなんて画家もあります。

しかし20世紀美術は、やはり時代に特有の作風と流行に合っていて、ほとんどはみ出ていないのです。たとえば同じアメリカの原住民の方、インディオのトーテムポールは『マリリンモンローの顔』とかなり違った世界だという、そういう視点が大事です。

ウェスターン・スタイルから出て、アート類をまんべんなく見る必要があります。オリエントさえがほんの一例です。西洋の千年をいくら分析してもローカル事情にすぎず、近年の趣味に合うお気に入りで芸術の特徴を考えても、普遍性はないでしょう。

さらに美術から脱出し、特に平面の絵画類から脱出する必要も感じました。なぜかといえばデッサン問題があるからです。日本で美術の造詣を言う時は、写実デッサンの巧みさを芸術性とみなす傾向があります。

写実デッサンが正確なら感動的な芸術で、デッサンが狂っていたら芸術失格とみる、標準的な思考がありますね。普通に日本の老若男女に共通する、「芸術の本質」への目見当は、スケッチ画を実物そっくりに描く手腕です。

6 絵画の芸術性が音楽に通用しない

ところがそのデッサン技術が、音楽には存在しません。ある曲が富士山の朝焼けに酷似しているからすごいという、そんな評価のしかたは音楽にはありません。あるわけがない。

絶対音楽と標題音楽のどちらも、この世の何かを模したわけではありません。カエルの声や雷鳴を模した音楽もあるにはありますが、ごく特殊です。音楽では自然物を実物そっくりにスケッチしません。音楽には写実がない。全部が抽象。

そうした音楽にも、芸術性は当然あります。なのに、絵画の芸術性と全く無関係です。それどころか音楽同士でもジャンルが違うと、鑑賞するツボに一貫性がないのです。

だから音楽では案の定、別ジャンルとの局地的な対立があります。ネットによくあるのは、クラシックが上かジャズが上かの言い争いでした。

クラシックは楽譜演奏の正確さを競い、ジャズはアドリブ演奏の独自性を競います。音の鳴らし損ねや詰まり、フェイク、予定にないフラジオトーンや追加リピートも含めて。そこでクラシックファンはジャズ批判する際に、演奏の不正確さや雑ぶりを叩くわけです。この直線的な価値観が、音楽の横の壁として堅固です。

モーツァルトやベートーベンを鑑賞するコツを学んでも、他に応用がききません。エリック・ドルフィーやロバート・グラスパー、アレサ・フランクリンやインコグニート、ピーター・グリーンやモーター・ヘッド、植木等や安室奈美恵もひとまとめに扱えたら、それに越したことはないのに。

7 芸術の特徴は表現の裂け目

芸術の正体を、著者はすぐには割り出せませんでした。が、出版原稿を長年整理しているうちに、はじき出すことができました。

芸術作品の大きい特徴は、「表現の裂け目」です。「ひょうげんのさけめ」、これが芸術作品の顕著な特徴です。表現の中に、裂け目となる謎の断層を含んでいます。

芸術の特徴は、表現の裂け目である。

具象画の秀逸さを示す指標は、先述のように写実デッサン能力とするのが一般的な認識です。しかしそれでは抽象画に全く対応できません。ゴッホの絵にデッサンなるものはあっても、ポロックの絵にはないからです。

だから、具象画はわかるけれど抽象画はわからないという美術ファンが、特に日本にはものすごく多くなっています。美術ファン以外の人なら、ほとんど全員といえるほど。

ところが「表現の裂け目」に目をつければ、具象画と抽象画を同じ土俵で鑑賞できます。苦手ではなくなる。印象派はわかるがピカソはわからない、ゴッホは許せてもポロックは許せない、という苦悩から自由になれます。絵画芸術と写真芸術の壁も消えます。

「表現の裂け目」は仏像や生け花にも通用します。ハイドンや歌舞伎、マイケル・ジャクソンや俳句、ロイヤルバレエと桂歌丸にも、等しく公平に芸術性を感じ取ることが可能です。いずれにも「表現の裂け目」ならありそうだから。

「芸術、それはよくわからないものである」という一言で始まり、終わっていく美術論が多い。でも、もう終止符を打ちましょう。「芸術、それは表現の裂け目である」から、全てを始めたいと思います。

それなら、ゴッホの絵のいったいどこに裂け目があるのか。もちろん、画面内に何らかの断層があります。

たとえばトンデモな稚拙さと、異様な情熱とのずれとして表れています。ぎらぎらの原色を裏打ちする、あのどす黒い影もそうです。パーッと明るく燃えながら、不吉な影が差した画風。躍動しているのにハッピーではない。

死相を帯びた、豊作の麦畑。絶望的な躍動感。ものすごい陰気さと陽気ぶり。陰陽の二つの性質が、一枚の画面に同居する。それゆえ取っ付きの悪い異様な絵に見える。それがゴッホです。

それと同じ性質を持つ抽象画もあるから、同じ基準で具象と抽象をまとめて鑑賞できます。頭を切り換えなくてよいのです。ひとつわかれば全部わかる。

8 表現の裂け目を見るなら勉強はいらない

美術作品には色々な技法があり、技量もピンキリです。だからなのか、鑑賞で真っ先に目を引く部分があると、それが芸術性だと考えてしまいやすいのです。

たとえばびっしりと細かく描き込まれた絵画や、信じられないほど繊細に組まれた立体作品など。

芸の細かさが、イコール芸術性だと思いやすいのです。手指の器用さが芸術家の条件だなと、目立つ部分に感化されて合点しやすい。

そうなると袋小路です。大ぶりで大ざっぱな造形に出会うと、一転してさっぱりわからなくなります。ヘンリー・ムーアの彫刻とか。鑑賞の基準をケース・バイ・ケースでとらえている限り、新しい出会いのたびに見る目が破綻します。

そのように表面的な特徴に感化されて、物差しをたくさん用意すると、すぐに行き届かなくなります。その証拠に、現代アートと漆塗り工芸は互いに批評し合いませんね。作品のウリとするツボが全く異り、共通点がない前提ができているからです。ジャンルが違うと友になれない。

わかるために別の勉強をやらされるから、一人の生涯で手に負えません。無理に共通するものを求めたら、作者の人間性や人となりなど、精神論や縁故の情へと向かいやすいのです。芸術性を人格や人徳にからめる談話を、折々に見聞しますよね。

こうして、何を指して芸術と呼ぶのか、何がどうなっていれば芸術に値するのかが、像を結ばなくなっています。それを続けると、一般の人たちはこうなるでしょう。「芸術は全然わかりません」「僕らに関係ありませんから」。

もう日本では、それを問題とする人もわずかです。芸術なんてわからないのが当たり前で、わかったら何か変な人が出てきたぞという話になります。ゲージツなんて言って、からかったり冷やかす対象になっていませんか。

欧米はそうでもないことは、日本にいると気づかないから怖い。