難しい芸術

浮世絵の創造性をはっきりさせよう(3)
【アートの本格解説】

9 浮世絵のルーツはこの人らしい

ちなみに切手趣味週間の『シャラク』『ビードロ』は、『ビードロ』の方が1.5倍ほどの価格で、切手コレクターのあこがれでした。ところがこのシリーズのヒーローとヒロインとして、もう一段上があります。日本切手の最大サイズだという、あの2枚です。

菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の『見返り美人』と、歌川(安藤)広重の『月に雁』です。前者が5円切手、後者が8円切手。この2種だけは、銭の単位「00」とアンダーラインが書かれています。威容を誇るデザイン。

その前者、今2019年の401年前に生まれた菱川師宣(1618~1694)が、浮世絵の創始者とされます。代表作『見返り美人』は切手趣味週間シリーズ中で、今でも最高人気の図柄です。カラーコピー機のテレビコマーシャルでも知られました。

この絵の魅力はやや不思議なもので、遠目に見ると謎めいた体躯の女性像であり、近くで見るとごく略された顔です。美人と言っても、ハリウッドの女性俳優とは全然違う。

抽象的ですが、制作はさらに昔にさかのぼる17世紀です。1600年代。つまり浮世絵は印象派と同時代でないどころか、はるかに古い江戸の前期や平安の画風にまでさかのぼれるスタイルです。抽象性が前衛として大暴れしたわけでもない、板についた抽象です。

菱川師宣はベラスケスより19歳下、レンブラントより12歳下、フェルメールより14歳上。それらバロック時代のリアリズム絵画にくらべ、20世紀絵画のように平板な不思議な図柄です。19世紀のヨーロッパ人には、なかなか解釈が難しかったでしょう。

西洋美術に魅了されてきた日本としては、菱川師宣は写実デッサンの徒でもなく、絵の巧みさでは位置づけにくいのです。明治以降の舶来文化摩擦で、はざまに隠れやすい絵です。

10 印象派と浮世絵の関係は無理が多い

ところで、西洋の印象派絵画と日本の浮世絵の関係を、はっきりさせたいのです。

ネットによくある情報に、印象派が生まれるきっかけは、浮世絵だったという説明があります。和の浮世絵が、洋の印象派の発祥に寄与した話になっています。

直接的な影響とまでは言わなくても、印象派が生まれた要因のひとつに浮世絵があった程度の説明は広まっているようです。その嬉しい情報は、実は間違いです。

印象派はもっと科学的な背景があって生まれました。簡単に言えば、具象画を大ざっぱに描いても絵は成り立つコンセプトです。粗く乱暴に絵を描いても、ちゃんと光景が伝わる「崩しの視点」が印象派です。

そこには、当時急発達した複数のサイエンスの成果が関係しました。

ひとつは人間の目のはたらきでした。眼球内の網膜の機能として、正確な描写でない雑に荒らした筆運びでもモチーフが判別できるという、略画への挑戦があったのです。近代の解剖学と、知覚や認知や神経の研究が裏打ちしています。

次に三角柱のガラス棒、つまりプリズムです。透明でニュートラルな太陽光を分解すると、赤から紫まで虹色に分かれるのは当時の新しい常識。そこから発展した「光の三原色」「絵具の三原色」の成果が知られます。

目視して色を混ぜる画風は、ルノワールが顕著です。美しい少女像でも、近づくとグシャグシャ。スーラの点描画も同様で、後のオフセットカラー印刷で、三原色のドットを敷き詰めてフルカラーを再現する、その原理の絵です。

「科学の時代」とは20世紀を指すのが通念ですが、急伸は19世紀半ばから始まっていました。19世紀科学を応用したのが印象派。

11 写実具象を終わらせてしまった発明

写実画を粗い絵に転向させたとどめは、19世紀前半に開発されたカメラでした。

絵画が長く保持していた機能、肖像画や風景画など記録性や記念性は、新ジャンルの写真に奪われたのです。先進の画家たちの一部は、写真技師へ職替えしました。

残った画家は、写真と競合しない独自表現へ進みました。当時は写実絵画を崩して、大ざっぱな具象画へと変えていく以外に行きようがなかったでしょう。

現に印象派の画家たちの多くは、画家本人自身がカメラに写って写真として残されています。写真に写るのが嫌いだったゴッホも、一枚の写真が残っています。

この19世紀のハイテクによって絵画の存在意義を問い直し、カメラではできない創造絵画へ向かったのが、印象派だったのは明らかです。

ちなみに、写真に画家が着彩する時期も、長く続きました。色が着いている古い写真はかなりあります。

1950年代の日本でも、観光地で売られていた絵はがきや名勝地のカード類に、カラー版が多くありました。著者の手元にも、日光東照宮のみやげ物カードがありました。渋いなりの原色で派手に塗られており、モダンなリアリティーがあった覚えがあります。

ただの白黒写真とは違い、上から着彩した印刷物は新しさを感じさせました。白黒写真を撮影して引き伸ばした印画紙に、筆で色をのせた版を重ね印刷で量産しています。当時は製版カメラが未発達なので、サイズなどに制約があったことでしょう。

この流れからみて、印象派絵画をデッサンの精度や、女性像の美人ぶりで感動しても、本質はそこではありません。印象派絵画を理解する人は、抽象画の理解者であろうという著者の珍説は、これが根拠です。

12 印象派の画家が浮世絵から受けた影響

浮世絵が印象派を生んだわけでないなら、どういう関係だったのでしょうか。浮世絵ショックとは何だったのか。それは影響を受けた西洋絵画を見れば簡単にわかります。非常に多いのは、日本製の物品のモチーフです。

日本の物品。ジャパニーズ・アイテムがフィーチャーされた。

扇子(せんす)や団扇(うちわ)などを、西洋女性モデルが手にした絵がありますね。マネの絵が知られますが、他にも多くあります。日本の品物がファッションとなり、印象派の画家たちの間で流行したことがうかがえます。

目立って刺激的なのはゴッホの『おいらん』です。遊女の姿を丸ごと複製して描いたあの油彩画が知られます。すぐに気づくのは、画風が少しも浮世絵になっていない点です。印象主義で描かれた「おいらん」です。それもゴッホ式の、後期印象主義的な画風です。

「おいらんの浮世絵」から、おいらんをパクッて、浮世絵をパクらなかったのが印象派でした。

ここで、ちょっと考えてみます。明治の文明開化で、日本の絵師が西洋画に感化された時には、画材も画風も西洋式で日本の風物を描きました。油絵具で描いた黒目の黒髪。

それに対してゴッホが日本画に感化された時は、モチーフを模倣したのです。画材や画風は自分流のままで。油絵具で描いた黒目の黒髪。

なぜか同じです。日本人もフランス人も、油彩で黒目黒髪。岩絵具で青い目の金髪を描きはせず。

パリの印象派画家たちも、文明開化の日本絵師たちも、油絵具とキャンバスで日本の風物を描きました。互いに正反対をやったのではなく、どちらも技法が西洋でモチーフが日本です。おもしろい現象です。

そして、ゴッホが描いた『おいらん』を音楽にたとえれば、山田耕筰の『赤とんぼ』をジミ・ヘンドリックスがエレキギターでかき鳴らした感じです。それを指して、ジミヘンは山田耕筰の影響を受けたといえるのか。

最近アメリカのボストン美術館の着せ替えアトラクションで知られた、モネの『ラ・ジャポネーズ』(1875)を見ると、浮世絵とも印象派とも違い、近世写実主義ふうです。ベラスケスふうの絵です。日本愛が、画風でなくアイテムへの熱愛だとよくわかる絵です。