難しい芸術

日本人が芸術が苦手になったのはなぜ?(4)
【アートの本格解説】

6 日本国民が勝手に自滅するわけはなく

なぜ日本国民は視点を持たず、見る目がないのか。美術を見上げたり見下ろしたりが激しく、普通につき合えないのか。

まず考えたいのは、日本人のアート苦手は生まれつきなのかです。そんなに感性が鈍いのか。僕らはそんなに情けないわけ?と、疑問を感じませんか。

国民を諭すはずの識者の分析までが権威主義なのは、いよいよ奇妙です。「いや、日本の芸術も馬鹿にできないぞ」という反論は、「だって欧米で評価されているから」と言い出して、またしても権威主義です。いわゆる価値の逆輸入というやつ。

浮世絵もそうですね。「欧米で高い評価を受けたから」という枕詞(まくらことば)がつきものです。19世紀パリの印象派の画家たちが、浮世絵の影響を受けたから、だから浮世絵は素晴らしいと。日本の誇りだと。よく聞く言い方です。自分が浮世絵をどう評価し、どんな点が優れているかは誰も言わない。

ドイツ町内の現代アートイベントで、いいのを見つけたと町民が絵を買う、そこには自分があります。日本だと自分がない。ネットの意見コーナーにも、自分を透明にした論法が並びます。

美術家がギャラリーの門を叩くと、ドイツなら「まず作品を見せて」、日本なら「まず受賞歴を見せて」。

「日本人て元々権威に弱いでしょ」「お上の言いなりでしょ」「自分の考えなんてないでしょ」「言われたとおりをやるだけ」「江戸時代からそうだし」「明治維新でさらに強まったし」の声も出そうです。いわゆる自虐的国民性の文脈でよくある理由づけです。

でも、音楽はそうなっていませんよね。業界の評価に頼ってアルバム購入を決めません。試聴してわかる前提です。「あの映画がつまらないって?、君ぃアカデミー賞だぞ」「カンヌ映画賞だぞ」と、水戸黄門ふうに言い返すのもまれ。

このように音楽も映画も、ユーザーに主体性があります。でも美術では主体性がなく、値打ち情報を外部に求めます。作品内容よりも由緒が第一。だから美術鑑賞ではオリジナル作品が大の苦手だし。かくも美術だけが特殊な扱いなのはなぜか。

7 なぜ日本では美術が特殊化したのか

大きかったのは内戦です。関係者への忖度もあり、表に出しにくいタブーですが。

日本で現代アートが二軍扱いされるのは、二軍に位置づけたからです。何者がそうしたのか?。一軍の人たちでしょう。

19世紀絵画が20世紀絵画をヘイトし、具象画家が抽象画家をヘイト、保守が前衛を、リアリズムがデフォルメをと、新進を排撃した史実があります。そして旧が新を追い落としました。

具象画はきれいだが抽象画は汚いなどと、国内の偉い人が言って回りました。近ごろの美術はわからないからいやですねえ、不愉快ですねえ、国民の敵ですねえと、折々に指導するインサイダー。国内の著名な文豪たちも、現代アートへの悪口雑言を書いて回った時代があります。

「えっ、世界にも知られるこの小説家も、現代アートを否定していたの?」。図書館の古本バックナンバーを見ると、かつての現代アート下げ発言に出くわします。ちなみに、現代アート擁護派もまた文学畑が多め。花田清輝とか。

美術界は二分され、これが内戦の構図です。その一断面は、印象派対ピカソでした。絵画公募で排除、駅前彫刻広場で排除。行政が公の敷地に現代アートを置かせず、母子銅像などを置いて回った理由は、わからない抽象は市民に好ましくなく、わかる具象が好ましいという回答でした。

今でたとえれば、LGBTはわからないからいやですねえと識者がつぶやき、風紀を乱しそうで好ましくないと役所が言う感じか。LGBTでそんな否定は起きていませんが、新興アートの否定は堂々と行われました。井戸端の陰口ではなく、各界リーダーの公的発言で。

新興アートの否定文言だらけだった過去があります。現代美術を導入したり振興に加担した美術館長が、次々と辞職した話も聞いた方がいるでしょう。2010年のあれではなく、1970年代と80年代の事件の方です。

8 芸術がわかる人を増やせば日本は伸びるが

ドイツ人と日本人は似ていると言われます。たとえば35ミリフィルムカメラの製造で、二重像合致式レンジファインダーはドイツ、クイックリターンミラー式一眼レフレックスは日本と、人類の中で二国しか完成できていない製品があります。理論と技術と抑制の二国。

その二国で現代アートに大差が生じたのは、日本では19世紀美術が権威に君臨し、20世紀美術の二軍化、サブ化、B級化、格下化、オマケ扱いがすんなり実現した違いです。現代アートは若い未熟者の勝手な暴走だと、国民に定着させた。

ところが、現代をヘイトするバッシングをみた国民は意外な反応を示しました。美術の全部を敬遠したのです。一軍と二軍の両方と距離を置きました。アート全体を丸ごと嫌い始めた。

本来は音楽のように、世界のどんな曲でも聴いて発売して売れる活況が、美術でも起きてよいはずです。日本もドイツ程度には創作表現の伝統を持つ国だから。しかし内戦が続く間に「芸術はみんな嫌い」と皆でそっぽを向いた。美術はイヤなものという感覚を、誰もが胸に刻んだ。

これは新発見ではありません。アート雑誌『芸術新潮』が、古美術派による新美術いじめが、地方美術館を悩ませている特集記事を、証拠写真つきで出したのは1980年代前半でした。意外に古ネタです。

2000年代の21世紀に、世界の美術商戦は現代アート一辺倒になり、今はアメリカと中国が世界一の市場規模を競い、韓国も日本を超えたでしょう。台湾や香港も現代マーケット拠点を狙い躍進。内部分裂で伸びようのない日本をよそに。

国内のこんな告白もありました。「祖父が買い集めた昭和の具象画が、遺産額の算定で暴落していた」という嘆きです。内戦に勝った側の古美術市場までが沈み、勝利の笑みどころか泣いている。

「そうは言っても、日本のアートは新旧どれも皆クソだろ」という、率直な感想も出るでしょう。それは内戦がまねいた「猫に小判」です。人を猫に変えた流れが存在し、小判の質低下もこの流れが悪循環した結果です。

20世紀のフランスは、サロンなど保守アートの伝統が強くて、抑圧された新興アーティストがアメリカへのがれたから、世界の現代アートの中心地はニューヨークへ移りました。

一方の日本はフランスよりも保守アートの牙城が固く、政官財も征した中、お客となる国民の気持ちが離れたのです。いさかいの雰囲気を嫌って。上が決めた評価を受け売りする程度の浅く遠い関係に、日本人は落ち着いたのです。

まさか共倒れとは、予想外だったでしょう。分断に繁栄なし。分裂に未来なし。新旧がリスペクトし合い、大市場を得た音楽業界とは明暗を分けました。(つづく)(2018年9月10日)