難しい芸術

日本人が芸術が苦手になったのはなぜ?(3)
【アートの本格解説】

4 ドイツで一般化し日本で特殊化する現代美術

欧州連合、EUを主導する最強国ドイツは、近年ポスト・ニューヨークを意識し、未来の世界美術の中心地を目指しています。世界遺産でもある、中州を含むベルリン美術館を核とし、世界のアーティストを集め情報発信する計画です。この誓いに現実感があるのは、美術が一般化した国だからです。キーワードは「一般化」です。

現代美術はドイツでは一般化し、日本では特殊化しています。日本では現代美術は哲学書みたいなものです。難解でややこしいからと、特殊領域でレア化しています。近年、地方や郡部で開かれる現代アートフェスティバルの大盛況も、特殊性の一面があります。スペシャルイベントなのも特殊化の表れでしょう。

対してドイツでは、市民の多くが現代美術作品を買います。難しい、わからないと言い出す段階ではなく、すでに作品を個人が所有しています。現代美術は哲学書でなく、小説や漫画コミック、音楽ソフトの位置づけです。家に作品壁や一角を設け、アートのある暮らしが町内のあちこちにみられます。

普通の市民が現代美術に関心を持ち、アートコレクターも多く。作品の入手計画を立て、目標の作風を普段から探している人も珍しくありません。作者に縁があるからではなく、聞いたこともない作者にも食指が動きます。お客同士の美術議論もよく始まるし。人々は美術に意見を持ち、受け身ではない。

そんなドイツに日本から送った現代作品を並べると、「この作家のテキストが欲しい」「作家のサイトを知りたい」とリクエストが来ました。日本側で作家情報を緊急編集して送りました。ローカルの場末ふうコーナーで展示したケースでは、業界人が偵察に来て作品を置いてもらう話になったことも。

そんなドイツのギャラリーは、現代アートのアンテナショップです。ギャラリスト、画商はスカウト役で、販売で当てようと未知の美術家を探しています。ギャラリストにも守備の得意不得意は一応あり、よく分かれるのはサブカル系の扱いです。

ドイツのギャラリストは、後ろ盾がある美術家は望まないようです。価値が定まっていると、むしろ見送ります。新人探しで先見の明を誇る面があります。美術を探す競争の空気がドイツで、全般に新人の新作が好き。

日本からドイツへ新人を送り込む時、偉大ぶりを保証するのは得策でないようです。未知数であることがハンデにならず、日本側でハクづけは不要でした。それも当たり前で、作品を見れば内容をつかめるから、内申書重視は不合理でしょう。

ドイツで、作品は何でもよいわけでもありません。買う方向で話が進んでも、結局買われないケースはけっこうあります。買って所有する立場で、作品はシビアにチェックされます。

日本によくある絵はゆるキャラ型です。ゆるキャラがモチーフの絵ではなく、主張がゆるくキャラが薄いタイプ。目が覚めるような強力な絵よりも、やんわり引いた絵が日本で評価されます。欧米では逆にイマイチです。ドイツでもアメリカでも、はっきり主張した作品が吉です。没個性はボツ。

日本ではアール・ブリュットにちなむ素人画など、何でもない作品が長く流行しています。ドイツは逆で、プロ指向と特別製指向です。「俺が俺がと主張するアートは嫌いです」の日本とは逆。そうなる理由は、見るだけでなく買うからでしょう。「うちの子にも描けそうな絵はわざわざ買わないよ」という本音がドイツ。

日本ではお客は見るだけで買わないから、ギャラリストが美術を売り込む熱意は希薄です。めったに買う人がいないから未来に期待はなく、売る言葉を磨くこともない。周囲の人のやることが日独で違います。

その結果、日本にはレンタルギャラリーが多くみられます。有志に貸し出す多目的スペースがギャラリーを名乗る、不動産活用の自称画廊です。このタイプはドイツには少ないのです。

日本で美術を買う目的は、資産運用と投機が言われてきました。世界の超高額アートは日本でも動きます。国民もならい、1980年代末にシルクスクリーンやオフセット版画の高額ローンが流行りました。一方のドイツで投機はまれで、鑑賞目的です。日本ほどの高値ブームの爆買いは起きません。だから日本と違い底値が低い。

日本のアートの特殊化の延長が、過疎の町おこし型現代アートフェスティバルだと気づきます。「初めまして、現代アートと申します」を繰り返しても、今も国民は一般化を許していません。特殊化と一般化の差という、日独現代アートの一席でした。(つづく)(2016年11月30日)

5 権威主義が常に前面に出てくる日本

日本の美術の本も、ネットのアート掲示板も、ある傾向がみられます。権威的な言い方の多さです。

作品の優秀を言う時、「僕は芸術的だと感じた」「創造性の高さが伝わった」「クリエイティビティーが違う」「あれはユニーク」「独創的」「個性的」。これらは意外に聞きません。つまり芸術性に触れる言い方がみられません。

代わりに出てくる言い方は・・・

「これは有名だ」「高いらしい」「受賞してるし」「巨匠」「美術学校の先生」「雑誌掲載」「画集が多数」「経歴がすごい」「政府主催」「文化財だ」「国宝だ」。スルスル出てくる言葉は、権威に関わる一言です。

「優秀だとあの人が言った」「世界的に知られているし」「大賞に輝いていて」。美術の値打ちで真っ先に出てくる言い方です。お墨付きの言葉で説得し、納得し合う傾向があるのです。権威を物差しにするお約束。

「僕が見てこうだから」「自分はこう感じるから」とは言い出しません。もし誰かが言い出せば、「それはただの君の考えでしょ」「主観で語るな」と叱る者が現れたりして。「業界が」「外国が」「値段が」にすぐ話が行く。

だから案の定、芸術に感動した体験は名作や有名人が対象です。無名の芸術に感動した体験が転がっていません。有名で高い名品に心寄せた美談ばかり。名前に恋している。

ドイツは違いました。市のアート週間、町内の現代アート展、地域のオープン・ギャラリー、オープン・アトリエなど楽しいイベントは、「自分はこう感じる」で動いています。僕の考えを持ち、主観で語る。日本と違い、芸術がわかっている前提です。

「本当にわかっているのか?」「その人の視点が正しい根拠はあるのか?」「個人の目は客観的といえるのか?」。こう日本人は考えますよね。値打ちがあるとするソースはあるのか、証拠を出して欲しいと。こうして物理学のごとく美術を見るのが日本の特徴で、各自の視点がないのです。

だからか、市場分析もこうだそうです。「日本の美術界は、国民にアートの資産価値を教える努力が足りない」「だから国民は美術を信用せず買わない」という分析。公募コンテスト展という「信用第一」の大本営発表が山とあるのに、さらにさらに信用情報を出したまえという奇妙な分析です。

普通に分析するなら、「自分の視点がないから買えない」です。価値を教えられていないからではなく、自力で見ないから買いようがない。 素直に分析すれば。