難しい芸術

日本人が芸術が苦手になったのはなぜ?(2)
【アートの本格解説】

2 ドイツで日本美術は日本よりは売れる

日本では現代アートは二軍扱いされ、「もうひとつの美術も楽しいよ」的なオマケの存在意義でマスコミをにぎわせているという、コアな話題のつづきです。

著者は美術を作る側の人間で、日本の現代美術作家をドイツで売り込む活動も行っています。最初の頃、こちらから現地の担当者に何度もたずねた疑問がありました。「ドイツでは現代美術の扱いは一般的なのか?」「現代モノばかり送ったら、お客が嫌がる危険はないか?」など。

回答がなかなか返ってこず、やがて伝えられたのは、現地で開催されるアート発表展は、全てが現代美術だという話でした。モダンかコンテンポラリーばかり。だから現地のポスターに、「現代美術なのじゃ」と一言入れる必要がありません。ドイツでは新作展は現代美術に決まっていて、二軍でなく一軍になっています。

日本は違います。現代美術展の表記は大事なマーキングです。現代モノが目当てのお客だけ来て、嫌うお客が来ないよう区別する目印が必要です。だから区分して呼び分けるのです。美術展だと聞いて駆けつけて現代モノだと知れば、当て外れのお客に苦情を言われる恐れもあるでしょう。日本だと。

この日欧の違いは、一応は日本国民の美術観が古風である証明でしょう。国内でよくみる現代美術へのヘイトスピーチも、これと関係はあるでしょう。ルノワールやマイヨールに心酔したエッセイストなどが、文中で現代抽象アートに一発悪口を言うあれです。「僕は長年の美術ファンですが、抽象はわけがわからないから見ません(キリッ)」。

地方都市や遠い郊外で開く現代アートフェスティバルが、テレビや新聞でいくら話題になってエールを送られても・・・。現代美術作品が一般化して市民権を得て、人々と日常的に交流できているわけではないのです。一般美術でなく特殊美術として、珍しがられつつも敬遠される点は、昔と特に変わっていません。

だから日本の現代美術の雰囲気は、どちらかといえば同人オタクの集いです。何となく非正規美術。B級グルメとして、マスコミのこぼれネタになっている様相。「B級もそれなりに楽しいぞ」というノリでウケているという。どこまで行っても二軍扱いの、遠い目で見られるのが一般社会との関係です。35歳以下限定の国内イメージは、思ったよりも深刻かも知れません。

美術市場の話に進めますが、日本では今も美術作品を所有する人はまれです。絵や彫刻や写真を、日本人は基本的に買いませんね。強いて言えば芸能人の絵画ぐらいで、他人の作品を手元に持つ人はまれです。皆無ではないものの、極端に少ない。買わずに見るつもりで展示会場へ行きます。日本人は主に見るだけ。これ、美術家同士の合い言葉。

ヨーロッパではまるで違って、お客は買う目的で美術を見に来ます。ただの見学ではなくて、予算を決めてあって、作風ターゲットもほぼ決めてあるという。現代アート作品を個人所有しコレクションする市民が多く、会場に高校生も買いに来て、実際に価格交渉しました。日本で売れない作品も、向こうでしばしば売れるほどで。しかも身内や知人でない、知らない他人が買う違いは大きい。

著者が日本で作品を集めてヨーロッパへ並べた当初、根本的な勘違いでコケました。いくつもの素人芸や、逆に日本価格ゆえ非売品同然となったせいで、お客の不満の声が返ってきたのです。買えるレンジに入れた品ぞろえへ、改める必要に迫られました。相手が見物ではなく、買いに来ると知ったのです。見るだけで終わる展示だと失敗。

「ヨーロッパ人は芸術をわかっているから買って、日本人はわかっていないから買わないのだ」とあっさり結論するのは簡単でしょう。問題はその原因です。美術とあればとりあえず判断保留して静観する日本は、個人の資質が集合した結果ではなく、そもそも国ぐるみ変な導かれ方をされていて、国民が制限されているのではないかと。日本のアートを取り巻く空気が、元から悪い疑いです。ここを伏せるのをやめた方がよいのかも。

社会教育の悪い成果として、日本はコンテンポラリーアートの一般化に失敗している珍しい先進国だと、著者は診断しました。そして、現代美術より格上の一軍美術でさえ、日本では市場が細いわけです。現代アートだけの話ではなく、全ての美術の不振につながっていて。深い絶望と、大きい希望が同時進行しています。そしてまた、伸びしろだらけでもあるし。(つづく)(2016年11月11日)

3 コンテストとアートフェアの根本的な差

現代美術は欧米では一軍扱いで、日本では二軍扱いになる話題のつづきです。二軍ではだめ。著者は日本の現代アートをヨーロッパへ送り、展示する企画を行っています。けっこうな手間がかかりますが、日欧両方の事情が入ります。まず日本の画家や彫刻家で意外に多いのは、自分の作品に値段をつけたことがないケースです。日欧の美術界が大きく異なる表れです。

日本で開催される美術展覧会は、公募コンテスト展という方式です。コンクール。展覧会といえば、すぐに入選や入賞の話に進みますね。日本では誰も変に感じない公募コンテスト展、その最大の特徴は検閲です。応募作品から劣った作品を排除し、優った作品のみ選出し公開する方式です。日本で公募するアート展覧会は、この当落コンテスト方式がほとんどです。

絵になっている作品、彫刻になっている作品を市民に見せて、なっていない作品を見せないやり方です。その利点と欠点の話は、またにしましょう。ここで問題は、公募コンテスト展の会場では作品に値段をつけて売ることはまずない点です。つまり非売品ですね。

公募展で活動する美術家は、自分の作品が何円なのかを考えずに長年制作し続けることになります。自作品の値段に目安もないのは、公募コンテスト方式と因果関係があるでしょう。

「それなら公募コンテスト展の会場でも、作品に値段をつけて売るよう変えていけばよい」とアイデアも出そうです。実は致命的な論理矛盾になるのです。

公募コンテスト展は、審査員の個人的な価値観で採点し、美術品を上位と下位に区別し、下位を切り捨てる方式です。ちなみに、だから応募する美術家にとって、何でもありではないのです。自由が束縛されるでしょう。審査員に逆らえば市民に見せられず。間に入ってはばまれる。この部分は今は関係ない話ですが。

値段をつけて売るなら、見物客に作品審査の権限が移ります。すると審査員がつけた順位と競合します。二重審査。先につけた値打ちと売れ行き順が異なるはずで、当選と落選の線引きにお客が疑問を持つかも知れません。しまいに、落選作も店頭に出そうという話になるでしょう。作品を減らすと、誰も得しないことに気づきます。

独裁的に動かしてきたコンテストが、途中から民主的に変わるわけで、不合理も起きるでしょう。コンテスト主催者が嫌った作品が人気になるなど、見物人に審査の的はずれをささやかれて、恥をかいたりとかも。ネットの力で、縁故の情実審査さえ表に出る時代ですから。

「この作品がおもしろいぞ」と人だかりができても、「それはつまらない作品だから長く立ち止まらないように」と、主催者が注意したりして。公募コンテスト展は一部作品に入賞の札を貼り、注目せよと市民を誘導し指導する仕組みです。会場で自由に買えたら、入賞札が虚しく浮いてしまう悲喜劇もあり得るでしょう。

「待てよ、それなら審査員をなくして、会場で市民が買えばスッキリするのでは?」という発想も出るでしょう。それが、欧米で広く普及している「アートフェア」という展覧会です。

アートフェアという語感には、何となくニワカ造語的な軽さがありますが、欧米では公募コンテスト展をほとんどやめて、アートフェア方式が長く続いています。

アートフェアは、画廊が集まったバザーです。主催者は画廊を募集します。画廊はブース内で展示販売します。リアル店を持つ画廊だけでなく、美術グループが臨時結成しても参加できます。作品は全て売り物です。フェアとは販売会の意味です。

日本の美術家が、自作品の値段を想定した体験がない事情は、作品制作によって得るものは金銭でなく賞だという、人生を送っていたせいです。日本であまりに多い公募コンテストと、あまりに少ないアートフェアによって、国際社会と違う感覚が定着しています。

日本から欧米へ現代作品を出す展示イベントに加わると、落選することはありません。大半がアートフェアだからです。アートフェアの名がつかないイベントも同じ機能です。サイフを持つ市民が直接採点し、買っていくわけです。審査員の誘導や指導がない世界です。

絵や彫刻になっていない、劣ったとされた作品には、上手を目指した未熟もあれば、未来人ならわかる創造もあり、もはや審査員には線引きが困難です。欧米が公募コンテスト展をやめた理由は、発想と作風の多様化による価値の広がりだというのは想像どおりです。簡単にいえば、ゴッホ事件への反省です。(つづく)(2016年11月30日)