リーディング・ミュージアム構想は、公務員や準公務員もアート市場をリードするシナリオです。官主導の事業と聞けば、業界人は敗退フラグを感じたことでしょう。サブカルの扱いが奇妙なクールジャパン物産館の低調も、一応前例であるし。
美術館は美の殿堂です。アートの宮殿。芸術の聖地。国内の美術行政の頂点に立つ、特別に権威的な博物館カテゴリーの施設です。構想がその権威に、べったり寄り添っている点がことさら気になるのです。
名品とわかっている範囲で作品を転がすわけです。お墨付きアートを動かして資金繰りを行う。中央政府のいつもの「在野嫌い」というか。たとえるなら血統書付きの犬しか扱わない主義であり、未来の閉そくを著者は予感します。
値打ちがある美術作品は、美術館の中に豊富で、外には乏しいという意識ですね。偉大な美術館の作品保証力を頼る感覚で。
陶芸に「箱書き」なる慣習があります。茶碗や壷を入れる保管用の木製小箱に、作品保証の毛筆文字があり印鑑も押してある、あれです。
中味の茶碗よりも、箱の文字を頼りに味わう。「箱書き」の比喩は、レッテル頼みの権威主義の象徴です。その箱の役を、美術館がになうかたち。
現に今、美術館の品ぞろえは後向きで、時とともに魅力が後退する傾向です。欧米の美術館にくらべて、日本の美術館は古風だと感じたことはありませんか。海外旅行経験者の方。
著者はマルチジャンルの画家でもあり、リーディング・ミュージアム構想への最初の関心は、自作品の出番が用意されるかでした。美術市場の拡大が本気なら、我々作家の手元にある絵画を市場に呼び込む構造改革に、当然期待するわけです。
「待て、おまえの絵など歴史的価値が決まっておらず、政府が目を向けるわけがない」「美術館の収蔵品だから立派なのであり、一歩外へ出た馬の骨アーティストに出番なんかないだろ」「何か保証でもあれば別だがね」とお叱りが聞こえてきそうです。
その話をしています。さっきその話をしたのです。血統書付きの犬だけを、犬として扱う話はまさにそれ。血統書付きが中心で、雑種排除の市場は小さいはず。日本の美術市場が小さい事実と一致しますね。
その箱書きや血統書への寄りかかりを、先進美術館構想で固めるよりは、崩す方が好ましいと著者は考えました。どうせなら、本当に市場が大きくなる仕組みに改革すべきだと。構想案はそこまで詰めていないような。
著者の対案は、日本国内に眠る美術作品を総動員して、マネーを回す発想です。部分拝借ではなく総動員です。国民の力を使うのが著者の考え。
美術館ファーストではなくて、国民ファースト。一億総活躍社会を築くため、働き方改革のため、無名やアングラにも目を向け手を伸ばす。
そうすれば美術館のトップ資産を転がす騒ぎや、アート汚職や横流しや背任スキャンダルは起きません。売買の戦に敗れて廃業となる美術館はゼロ。辞職者なし。むごい結末は完全予防。
著者の対案は、日本国内に隠れてくすぶっている美術を表に出し、市場拡大するポスト構造改革です。画家や彫刻家や写真家や各種工芸などの面々を動員して、国内流通量を増やすことが先決という視点で。
表に出ない知られざる隠れ美術を、表に出す場を設けます。それを国民が買えるリアルの場を設け、業界のパイ全体を大きくします。ただしネット販売はわくわく感が小さいので後回しです。
未知の作品を掘り出すから、市場の作品はどっさり増えます。限られた作品をピンポンする転がしではなく、新作を供給し続けます。全体のパイを大きくするスケール拡大策です。
「でも無名作品はゴミだし、つまらぬものを誰が相手にするのか?」と反論があるでしょう。間違ってはいけません。ゴミを売り逃げする話ではないのです。宝を見つけて、誰かが買い取る話です。
「ゴミが9999個あって、宝が1個だとして、非効率すぎないか?」という心配もあるでしょう。それは、著者が実際に国内美術を集める仕事を通し、49個対1個で宝という割合が現実です。50分の1で芸術的逸品はあろうとの想定です。安全率2倍で、99個対1個を平均の当たり率と考えます。
「99個の方はどうするつもりか?」という疑問も、当然わくでしょう。ざっくり言って、その正体は広義の「売り絵」の範囲に入るでしょう。だから売れます。買い手が現れそうなA級作品です。廃棄物とは違うので心配なし。
「それなら正真正銘のゴミ作品はどこへ消えた?」と気になるかも。失敗作は作者がボツにして市場に出さないでしょう。もっとよいのが別にあるから。まあ、権威ある美術館を基準とすれば、無名作品はゴミにも見えるかも。血統書がない犬が、下等動物に見えるみたいに。
ちなみに著者は、作者が引っ込めた作品からも逸品を探します。外国だと売れたりして。芸術は創造ゆえ、どこに現れるかは予想外です。実感がまんま当たれば、ゴッホは生存中から巨匠扱いだったはず。いつになっても、その点はおごるべからず。
日本で新しい作品が死蔵されている最大の理由は、国内で美術が売れないからです。政府の主張どおりです。
あたかもデフレ不況のごとく、因果がサイクル化しています。原因が結果になって、結果が原因をつくる悪循環です。破るのに頭を使います。
普通のマンションの家庭にも、40センチのモダンアート絵画がかかっている未来を考えます。隣の部屋にも一点。そういう家庭が多い国に、今から変えていく話をしています。何も変えないのではなく、そこは変える。政府の目的も活かして。
本気で美術市場を大きくするなら、国民が普通に美術を買う国へと変える必要があるでしょう。欧米はそうなっていて、日本はなっていません。「美術はわからない、芸術は難しい、現代アートは理解できない」という、往年の限界が今も続くからです。日本だけが。
構想が美術館の血統書機能に頼らんとするのは、美術がわからない国民への忖度もあったでしょう。皆がよくわかるなら殿堂の外へ出るはず。外の方が傑作が豊富だから。
要は無名作品を見てチンプンカンプンだと、何をどうやっても未来がないわけです。そこで著者の対案は、チンプンカンプンでない人を増やす変化を仕掛けて、それを先進性と称する方針です。
既定の資産を切り崩さずに、隠れ資産を持ってくる逆転の発想で。