難しい芸術

美術の価格と鑑賞と感動(4)
【アートの本格解説】

13 新美術を見送る習慣を生む害

高額の美術が市場を引っ張り、値段の数字が感動を支える状態。その高価格ビジネスモデルに国民があまりに順応すると、鑑賞の心理かく乱とはまた別の害が出てきます。

絵の良し悪しを値段で測る感覚になじむに従い、駆け出し画家を相手にするメリットがなくなるのです。新人画家の絵は、相手にするだけ損だという理屈になるから。

新人は安いから価値が低くてだめだと思うだけでなく、高くなってから相手にすれば間に合う打算になります。何十年か待って、出世したのを見届けてから買えばいいやと。未知数の今は相手にしなくていい。花が咲いてから、花だけ買えばいいやと。

何十年かたって消えていたら、将来性がない画家だったと答がわかるのだから、あの時買わなくて正解だったと。年月経て残っていれば、その時に喜んで買いましょうと。枯れたアンティーク名品になった頃に相手にすれば、迷うこともないし無駄が省けて堅実だと。

古くて高い大物だけを追いかけたら、必ずアタリだから得だと。空くじなし。今の新人はハズレかも知れないから、将来の子孫に全部まかせちゃえと。新しいのは、答がわかるまで見送ればいいやと。

若い芽を育てる気持ち、その本音の部分が国ぐるみ後退していきます。「古典的な作風の方が平易でわかる」という理由以外に、高いほど感動できる習慣がそうさせます。

その本心はこうかも知れません。「君の絵が優れているかは、僕にはわからない」「まだ値がつかないようだが、努力し精進して欲しい」「君が大物になった日には、僕は君に協力することを約束する」と。

これは「勝ち馬に乗る」という行動です。でも変には思えませんよね。この傾向がどこでも普通なら、常識的な範囲にみえるでしょう。日本国内の美術の回転原理は、だいたいこういうパターンです。それは欧州をみて気づきました。

14 日本にいると気づかない世界美術

欧州の美術展で回数を積むうちに、わかってきたことがあります。「この画家は優れている」という「上げ情報」をこちらで用意すると、むしろ敬遠されました。「良し悪しは俺が決めることであり、あんたが俺に教えることではない」という態度が欧米にあります。「未知の画家を俺が見つけるさ」と。

よい言い方ではないのですが、ヴァージン・アーティストに見せた方が、外国のギャラリストは関心を持つのです。裏に保証人やら後見人がいない孤立した画家である方が、外国では注視を受けて有利らしいという。

日本はかなり違います。日本だと、画家が優れていることを証明する書類を用意するよう指示されます。誰が指示したかといえば、展示イベント会場を運営するマネージャーたちと、美術館の収蔵品を決める学芸員(教育委員会から派遣)でした。日本だと美術の書類審査は末端でも常識です。

世界はそうでもありません。「絵を見ればわかるのだから、他に何が必要なのかね?」というのが、世界基準だと受け取れました。欧米の民間の美術界は、ほとんどこの調子です。

日本は逆です。「絵だけでは良し悪しは伝わらないから、値打ちを保証する書面を用意して欲しい」「優れた作品だと裏づける資料がいる」「資料は最低二つで足りるので」という展開になりました。バリバリのやり手マネージャーがそう。

二つの書類のうち、ひとつに期待されるのは欧米の美術ムーブメントとのつながりでした。欧米のトレンドをきちんと追いかけて、ついて行けている国内アーティストなのかを、見落とさずに検査する慣習がありました。言い換えれば、オリジナル排除の徹底履行。

美術家の側としては、「作品を見ても芸術性に言及できず、芸術を語れずして、どうして美術界にいるのですか」「芸術の場を、芸術が苦手な人が仕切っているいきさつを知りたい」というあたりが実感でしょう。

しかし美術家たちは弱者であり、マネージャーたちは強者。作品を市民に公開するかしないか、決定権を持つ立場に画家や彫刻家はさからえません。

15 亡命しない美術家の苦労

こうしたアートの国内環境が意味するものを察した新人画家は、芸術への取り組みが当然鈍ります。作品では先が開けないからとくじけてしまったり、何をやるべきか悩み始めてペースを崩したり。

団体や学閥の縁故活用は別として、外国へも出て行かないなら、作品以外の別のことで目立つようにシフトせざるを得ません。作品づくりに励んでも、未来は暗いとなれば。

その表れとして、ネット掲示板などで画家の卵が身の振り方を先輩に質問しても、「より芸術的な作品を作りたまえ」と答える先輩はいません。作品内容が出世のパスポートにならない業界事情について、先輩は何かを知っているからでしょう。

売り絵に徹する手もありますが、極端にいえば歌手を本業として絵を副業としたり、わいせつ系の騒動で注目を集めたりも、実戦的には考えられます。作品からいったん離れて別の力をつける思いつきは、ふざけているようでけっこう真剣な身の振り方なのです。

展示興行を工夫して即お金をつくるという、スピード解決もあります。好例はSNSで前評判を高めて、お客の大量動員に成功した『ブラックボックス展』でした。輝かしい集金力に、著名人も一目置かざるを得なかった。マネーありきはすごい説得力。

しかしその方向へ流れる文化活動は、きっと美術の市場を冷やすでしょう。絵や彫刻を売買する雰囲気を壊し、リアル美術市場の規模縮小へと向かわせると考えられます。アートが売れない美術小国にとどまって伸び悩む未来が、何となく想像できます。

その予感が常にあったので、作品だけ見て評価をくだせる人が多い国へと、日本を変える方法は本当にないのか、長年考えてきました。具体的に必要な作戦は何か。

(補足)
美術作品が高価格な理由は、たった一語で言い表せば「話題性」です。世間でささやかれる「値段と芸術性に関係はない」の言い方については、現実がそうなっています。その証拠に、レオナルド・ダ・ヴィンチの『サルバトール・ムンディー』が最初に市場に出た時、1958年のオークションで45ポンドで落札されました。当時の日本円で45360円。同じ1958年に発売された、世界初のインスタントラーメン『チキンラーメン』1296個分の価値が、『サルバトール・ムンディー』の中味だけの価値に近いでしょう。(つづく)(2018年6月27日)