難しい芸術

美術のディープな話題集。正統の美学論やアート理解サイトに出回る従来の通説を、次々とくつがえす本物の突っ込みが満載。表に出しにくい秘話や裏ネタ、隠しごとの類までタブーなし。誰にも忖度も迎合もなく切り込む、現代美術の本格的な解説シリーズ。(→ もくじページへ

日本人が芸術が苦手になったのはなぜ?
【アートの本格解説】

1 SMAP騒動と現代美術の35歳まで

総理大臣も談話を出すという、今起きているアイドルグループSMAPの解散騒ぎは、登場人物の年齢が総じて高いのが特徴です。アイドルメンバーたちの年齢こそが、本来なら副社長やマネージャーの年齢に思えるほど。

日本で40歳はすでにヤングの部類に入っていて、あらゆる職種で若造として認識されていると思われます。たとえば建築設計界でかつて言われたのは、「海外では40歳は駆け出しだ」という忠告でした。日本の雑誌社が、そのあたりの建築家を巨匠格に扱う風潮を戒めたもの。

今となっては、それこそ80を過ぎないと神扱いされないほど、逆転というかスライドしています。日本国民はすでに高齢化社会への心の準備を済ませていて、人口ピラミッドが著しくトップヘビーへ変形している前提で、社会を動かす中心世代を高め設定しているようで。

連想するのは、日本の企業が長く求人案内に書いていた、35歳までという応募資格の年齢制限です。今は国際的な人権侵害抵触をかわすために、表に書くのはやめて、採用対象から外すボーダーラインとして裏で死守し、そこだけがポツンと前時代的に取り残されています。

35歳の区切りはそもそもブラック運営と同根の心情的動機であって、途中入社の全員を「おまえ」と呼んでしごける低位に置く序列維持(新リーダーの出現阻止)が本意ゆえ、理由は常に虚偽説明されてきたもの。しかしSMAP騒動を受けて、今後は43歳までと改正されるかも知れません。(2016年1月19日)

・・・これは少し古い記事で、ドイツで日本美術展を開催する活動ブログのバックナンバーです。ここに出てくるキーナンバー35は、日本の美術分野でやはり見かけます。日本のある地方で行う現代アート行事で、参加の応募資格が35歳までという条件がありました。

結婚などで日本人が年齢に非常にこだわる動機や真意は、また別の機会にしましょう。しかし、現代アートの催しに年齢制限がしばしば出てくるのは、理由があるのです。そもそも現代美術に関わる者はもっぱら若者が中心だというイメージが、国民の念頭にできあがっていませんか。

現代美術は若者専科というか、ヤングの集いになっている、あるいは世間がそうイメージしているように感じられます。日本国民は現代美術は若い人たちが作るものと考え、それゆえ一過性とみています。作者がやがて年をとれば、卒業して巣立っていく前提です。

現代美術は若気のいたりで疾走する、その元気さと無鉄砲が取りえだという。若かりし頃に入れ込んだその場限りのお祭り的な陶酔として、ほろ苦い思い出が残るイメージです。実は、日本の現代作家や現代論者にも普通に中高年は多いのですが、どうやら理屈抜きの若いイメージが先走っているようです。

そして、現代美術が今のマスコミを大きくにぎわしても、一向に一般化していない点に注意がいります。一般美術として扱われない問題です。美術全体の中で、現代系はいうなればアウトサイドの地位で、オプション扱いのまま。メインとなるちゃんとした本美術が別にあって、「もうひとつのアート」としてサブ的な役に現代美術が置かれている構造がみえるのです。

日本国民が、現代美術をフル代表ではなく、U35アートでイメージしている疑惑です。日本を代表する顔としては当てにしておらず。この構造は、日本の美術界全体の大きい経済損失にもつながっています。現代モノを使い捨てのシロート芸とみる空気があり、売買の雰囲気がつくれずにいます。

アートフェスティバルも社会現象で終わって、産業までは至らないという。ただのブーム。早い話、現代系はプロ化が困難です。現代では食っていけない。だから結局、アマチュアの世界に何となく隔離されていて。

「現代美術っていいね」という内輪の盛り上がりは置いておき、そもそも国内で一般化せずに二軍扱いになっている現実から話を始めます。ん?、国内で・・・?、国内だけの話?、そうです。欧米では、現代美術は二軍ではなく一軍扱いです。格下アートなどではなくて。この地位の落差が存在することは、実は日本国内ではあまり知られていないのです。(つづく)(2016年11月11日)

2 ドイツで日本美術は日本よりは売れる

日本では現代アートは二軍扱いされ、「もうひとつの美術も楽しいよ」的なオマケの存在意義でマスコミをにぎわせているという、コアな話題のつづきです。

著者は美術を作る側の人間で、日本の現代美術作家をドイツで売り込む活動も行っています。最初の頃、こちらから現地の担当者に何度もたずねた疑問がありました。「ドイツでは現代美術の扱いは一般的なのか?」「現代モノばかり送ったら、お客が嫌がる危険はないか?」など。

回答がなかなか返ってこず、やがて伝えられたのは、現地で開催されるアート発表展は、全てが現代美術だという話でした。モダンかコンテンポラリーばかり。だから現地のポスターに、「現代美術なのじゃ」と一言入れる必要がありません。ドイツでは新作展は現代美術に決まっていて、二軍でなく一軍になっています。

日本は違います。現代美術展の表記は大事なマーキングです。現代モノが目当てのお客だけ来て、嫌うお客が来ないよう区別する目印が必要です。だから区分して呼び分けるのです。美術展だと聞いて駆けつけて現代モノだと知れば、当て外れのお客に苦情を言われる恐れもあるでしょう。日本だと。

この日欧の違いは、一応は日本国民の美術観が古風である証明でしょう。国内でよくみる現代美術へのヘイトスピーチも、これと関係はあるでしょう。ルノワールやマイヨールに心酔したエッセイストなどが、文中で現代抽象アートに一発悪口を言うあれです。「僕は長年の美術ファンですが、抽象はわけがわからないから見ません(キリッ)」。

地方都市や遠い郊外で開く現代アートフェスティバルが、テレビや新聞でいくら話題になってエールを送られても・・・。現代美術作品が一般化して市民権を得て、人々と日常的に交流できているわけではないのです。一般美術でなく特殊美術として、珍しがられつつも敬遠される点は、昔と特に変わっていません。

だから日本の現代美術の雰囲気は、どちらかといえば同人オタクの集いです。何となく非正規美術。B級グルメとして、マスコミのこぼれネタになっている様相。「B級もそれなりに楽しいぞ」というノリでウケているという。どこまで行っても二軍扱いの、遠い目で見られるのが一般社会との関係です。35歳以下限定の国内イメージは、思ったよりも深刻かも知れません。

美術市場の話に進めますが、日本では今も美術作品を所有する人はまれです。絵や彫刻や写真を、日本人は基本的に買いませんね。強いて言えば芸能人の絵画ぐらいで、他人の作品を手元に持つ人はまれです。皆無ではないものの、極端に少ない。買わずに見るつもりで展示会場へ行きます。日本人は主に見るだけ。これ、美術家同士の合い言葉。

ヨーロッパではまるで違って、お客は買う目的で美術を見に来ます。ただの見学ではなくて、予算を決めてあって、作風ターゲットもほぼ決めてあるという。現代アート作品を個人所有しコレクションする市民が多く、会場に高校生も買いに来て、実際に価格交渉しました。日本で売れない作品も、向こうでしばしば売れるほどで。しかも身内や知人でない、知らない他人が買う違いは大きい。

著者が日本で作品を集めてヨーロッパへ並べた当初、根本的な勘違いでコケました。いくつもの素人芸や、逆に日本価格ゆえ非売品同然となったせいで、お客の不満の声が返ってきたのです。買えるレンジに入れた品ぞろえへ、改める必要に迫られました。相手が見物ではなく、買いに来ると知ったのです。見るだけで終わる展示だと失敗。

「ヨーロッパ人は芸術をわかっているから買って、日本人はわかっていないから買わないのだ」とあっさり結論するのは簡単でしょう。問題はその原因です。美術とあればとりあえず判断保留して静観する日本は、個人の資質が集合した結果ではなく、そもそも国ぐるみ変な導かれ方をされていて、国民が制限されているのではないかと。日本のアートを取り巻く空気が、元から悪い疑いです。ここを伏せるのをやめた方がよいのかも。

社会教育の悪い成果として、日本はコンテンポラリーアートの一般化に失敗している珍しい先進国だと、著者は診断しました。そして、現代美術より格上の一軍美術でさえ、日本では市場が細いわけです。現代アートだけの話ではなく、全ての美術の不振につながっていて。深い絶望と、大きい希望が同時進行しています。そしてまた、伸びしろだらけでもあるし。(つづく)(2016年11月11日)

3 公募コンテストとアートフェアの根本的な差

現代美術は欧米では一軍扱いで、日本では二軍扱いという話題のつづきです。二軍ではだめ。著者は日本の現代アートをヨーロッパへ送り、展示する企画を行っています。けっこうな手間がかかりますが、日欧両方の事情が入ります。まず日本の画家や彫刻家で意外に多いのは、自分の作品に値段をつけたことがないケースです。これは、日欧の美術界が大きく異なる表れです。

日本で広まっている美術展覧会の方式は、公募コンテスト展です。コンクール方式。展覧会といえば、すぐに入選や入賞の話に進みますね。日本では誰も変に感じない公募コンテスト展ですが、その最大の特徴は検閲です。応募作品の中から劣った作品を排除し、優った作品のみ選出して公開する方式です。日本でアート展覧会といえば、この当落コンテスト方式が主流です。

絵になっている作品、彫刻になっている作品を市民に見せて、なっていない作品を見せないというやり方です。その利点と欠点の話は、またにしましょう。ここで問題は、公募コンテスト展の会場では作品に値段をつけて売ることはまずない点です。つまり非売品ですね。

公募展で活動する美術家は、自分の作品が何円なのかを考えずに長年制作し続けることになります。自作品の値段を決めていなくて、決める目安も考えないのは、公募コンテスト方式が広く行われている実態と因果関係があるでしょう。

「それなら公募コンテスト展の会場でも、作品に値段をつけて売るよう変えていけばよい」というアイデアが出てきそうです。実はそれは、致命的な論理矛盾になるのです。

公募コンテスト展は、審査員の個人的な価値観で採点して、美術品を上位と下位に区別して、下位を切り捨てる方式です。ちなみに、だから応募する美術家にとっては、何でもありではないのです。自由が束縛された制作になるでしょう。審査員に逆らったら、市民に見せることができません。間に入ってはばまれる。この部分は今は関係ない話ですが。

値段をつけて売るとなれば、見物客の側に作品を審査する権限が移るわけです。すると審査員がつけた順位と競合します。いわば二重審査。先につけた値打ちと売れ行き順が異なるはずで、しまいにはお客が落選作も見せて欲しいと言い出すかも知れません。当選作が全部売れたら、落選作も店頭に出そうという話になる理屈です。つまり、作品を選んで減らすと誰も得しません。

独裁主義で動くコンテストが、途中から民主主義に変わるわけなので、ぎくしゃくした悲喜劇が起きて当たり前でしょう。コンテスト主催者が嫌った作品が人気になったり、見物人に審査の的はずれをささやかれ恥をかいたりと、根幹をゆるがす展開もあるかも知れません。ネットの内実探りの力で、縁故の情実審査さえ表に出てしまう時代ですから。

市民が「この作品がおもしろい」と人だかりをつくっても、主催者が「それはつまらない作品だから長く立ち止まらないように」と、会場で指導したりして。そもそも公募コンテスト展は、一部の作品に入賞の札を貼ることで、これに注目せよと市民を指導したり誘導する仕組みです。もし会場で自由に買えたら、貼った札が裏目に出る事件もあり得るでしょう。

「待てよ、それなら審査員をなくして、会場で市民が審査して買えばよいのでは?」という発想も出るでしょう。それが、欧米で広く普及している「アートフェア」という展覧会です。

アートフェアという語感には、何となくニワカ造語的な軽さがありますが、欧米では公募コンテスト展をほとんどやめて、アートフェア方式が長く続いています。

アートフェアは、画廊が集まったバザーです。主催者は画廊を募集します。画廊はブース内で展示販売します。リアル店を持つ画廊だけでなく、美術グループが臨時結成しても参加できます。作品は全て売り物です。フェアとは販売会の意味です。

日本の美術家が、自作品の値段を想定した体験がない事情は、作品制作によって得るものは金銭でなく賞だという、人生を送っていたせいです。日本であまりにも多い公募コンテスト展と、あまりにも少ないアートフェアによって、世界と違う美術感覚が定着しています。

日本から欧米へ現代作品を出す展示イベントに参加する場合、落選することはありません。大半がアートフェアだからです。アートフェアの名がつかないイベントも、ほぼ同じ機能です。サイフを持った市民が直接採点して、買っていくわけです。審査員の指導や誘導がない場であり、必要としなくなっています。

絵や彫刻になっていない、劣ったとされた作品には、上手を目指した未熟もあれば、未来人ならわかる創造もあり、もはや審査員には線引きが困難です。欧米が公募コンテスト展をやめた理由は、発想と作風の多様化による価値の広がりだというのは想像どおりです。簡単にいえば、ゴッホ事件への反省です。(つづく)(2016年11月30日)

4 ドイツで一般化し日本で特殊化する現代美術

欧州連合、EUを主導する最強国ドイツは、近年ポスト・ニューヨークを目指し、未来の世界美術の中心地になろうと動いています。世界遺産や中州を含むベルリン美術館を核とし、世界のアーティストを集め情報発信する計画です。この誓いに現実感があるのは、美術が一般化している国だからです。キーワードは「一般化」です。

現代美術はドイツでは一般化し、日本では特殊化しています。日本では、現代美術は言うなれば哲学書みたいなものです。難解でややこしいとして遠ざけられ、特殊領域でレア化しています。近年、地方や郡部で開催される現代アートフェスティバルの大盛況も、特殊性の突出を感じさせます。スペシャルイベントのかたちで、現代アートが市民の関心を引くのは特殊化の表れです。

対してドイツでは、市民の多くが現代美術作品を買います。難しいとかわからないと言い出す段階ではなく、すでに作品の実物を個人が所有していたりして。現代美術は哲学書よりも、小説や漫画コミック、音楽ソフトの位置づけです。家に作品用の壁や一角を設けた、アートのある暮らしが町内のあちこちにみられます。ドイツで現代アートは一般化しています。

普通の市民が現代美術に関心を持ち、アートコレクターも多く。作品の入手計画を立て、目標の作風を普段から探している人も珍しくありません。しかも作者に縁があって買うのではなく、聞いたこともない作者の作品にも食指が動きます。お客同士の美術議論もよく始まります。人々は美術に意見を持ち、受け身ではない。

そんなドイツに日本から送った現代作品を並べると、「この作家のテキストが欲しい」「作家のサイトを知りたい」とリクエストが来ました。日本で作家情報を緊急編集して送りました。ローカルの場末ふうコーナーで展示し、業界人が偵察に来て作品を置いてもらう話になったことも。

そんなドイツのギャラリーは、現代アートのアンテナショップです。ギャラリスト、画商はスカウト役で、販売で当てようと未知の美術家を探しています。ギャラリストにも守備の得意不得意は一応あり、よく分かれるのはサブカル系の扱いです。

ドイツのギャラリストは、後ろ盾がある美術家はむしろ望まないようです。価値が定まっていると、うま味はないと考えるようです。新人を見つけようと、先見の明を誇る面もあります。常に美術を探す競争の空気がドイツで、全般に新人の新作が好き。

日本からドイツへ新人を送り込む時、偉大ぶりを保証するのは得策ではないようです。未知数であることが現地でのハンデにならないから、日本側でハクをつける飾りつけは不要でした。それも当たり前のことで、作品を見れば内容をつかめるから、内申書重視は不合理でしょう。

ドイツの鑑賞者は買う視点で見るから、作品は何でもよいわけでもありません。買う方向で話が進んでも、結局買われないケースはけっこうあります。所有する立場で作品はシビアにチェックされます。

たとえば、日本によくある絵はゆるキャラ型です。ゆるキャラがモチーフの絵ではなく、主張がゆるくキャラが薄いのが特徴です。目が覚めるような強力な絵よりも、やんわり引いた絵が日本で評価されます。ひかえめな方が好感度が高い。しかし欧米ではイマイチです。ドイツでもアメリカでも、ひかえめであるよりもはっきり主張した作品が吉です。没個性はボツです。

日本ではアール・ブリュットにちなんだ素人っぽさや、何でもない美術作品が長く流行っていますが、ドイツでは逆です。プロ指向、優れもの指向、特別製指向です。「俺が俺がと主張するアートは嫌いです」の声が大きい日本とは逆です。そうなる理由は、見るだけでなく買うからでしょう。「うちの子にも描けそうな絵はわざわざ買わないよ」という本音がドイツ。

日本ではどうか・・・という話になると、かなりの部分で正反対かも知れません。売らない前提かつ買わない前提。その結果か、日本にはレンタルギャラリーが多いのです。有志に貸し出す多目的スペースがギャラリーを名乗り、不動産活用的な自称画廊です。これはドイツにはあまりありません。

日本では、お客は見るだけで買わない前提で全てが回ります。ギャラリストが美術を売り込もうと、意気込む熱意は希薄です。めったに買う人がいないから、もう未来に期待せず、売る言葉を磨くこともない。ともに美術に関わりながら、やることが日独で違います。

日本で美術を買う主な目的は、昔からセレブの資産運用と投資が強調されてきました。世界の超高額アートは日本でも動きます。国民も似て、バブルの1980年代末のアメリカ発シルクスクリーン版画やオフセット版画の大ブームで、高額なローン支払いが流行りました。一方のドイツ国民は投機は考えず、日本ほどの高値ブームの爆買いは起きません。日本人にとって、今もアートは一般的ではなく特殊だから、底値も高めです。

こうしたアートの特殊化の延長が、過疎の町おこし型現代アートフェスティバルだと気づきます。「初めまして、現代アートと申します」を繰り返しても、今も国民は一般化を許していません。特殊化と一般化の差があるという、日独現代アートの一席でした。(つづく)(2016年11月30日)

5 権威主義が常にまとわりつく日本

日本の美術の本も、ネットのアート掲示板も、ある傾向がみられます。権威的な言い方の多さです。

作品の優秀を言う時、「僕は芸術的だと感じた」「創造性の高さが伝わった」「クリエイティビティーが違う」「あれはユニーク」「個性的」。これらは意外に聞きません。つまり芸術性に触れる言い方がみられません。

代わりに出てくる言い方は・・・

「これは有名だ」「高いらしい」「受賞してるし」「巨匠」「美術学校の先生」「雑誌掲載」「画集が多数」「経歴がすごい」「政府主催」「文化財だ」「国宝だ」。スルスル出てくる言葉は、権威に関わる一言です。

「あの人が優秀だと言っていた」「世界的に知られているし」「大賞に輝いたから」。美術の値打ちで真っ先に出てくる言い方です。お墨付きの言葉で説得し、納得し合う傾向があるのです。権威を物差しにするお約束。

「僕が見てこうだから」「自分はこう感じるから」とは言い出しません。もし誰かが言い出せば、「それはただの君の考えでしょ」「主観で語るな」と叩く者が現れたりして。「業界が」「外国が」「値段が」にすぐ話が行く。

だから案の定、芸術に感動した体験は名作や有名人が対象です。無名の芸術に感動した体験が転がっていません。有名で高い名品に心寄せた美談ばかり。名前に恋している。

ドイツは違いました。市のアート月間、町内現代アート展、ガレージセールふう即売会、地域のオープン・アトリエなど楽しいイベントは、「自分はこう感じる」が原動力となっています。僕の考えを持ち、主観で語る。日本と違い、芸術がわかっている前提です。

「本当にわかっているのか?」「その人の視点が正しい根拠はあるのか?」「個人の目は客観的といえるのか?」。こう日本人は考えますよね。値打ちがあるとするソースはあるのか、証拠を出して欲しいと。こうして物理学のごとく美術を見るのが日本の特徴で、各自の視点がないのです。

そのせいで、市場分析もこんな調子です。「日本の美術界は、国民にアートの資産価値を教える努力が足りない」「だから国民は美術を信用せず買わない」という分析。公募コンテスト展という大本営発表が山ほどある日本で、大本営の発表をさらに強めよという分析。

普通に分析するなら、「自分の視点がないから買えない」です。価値を教えられていないからではなく、自力で見ないから買いようがない。

6 日本国民が勝手に自滅するわけはなく

なぜ日本国民は視点を持たず、見る目がないのか。美術を見上げたり見下したりが激しく、普通につき合えないのか。まず考えたいのは、日本人のアート苦手は生まれつきなのかです。そんなに感性が鈍いのか。僕らはそんなに情けないわけ?と、疑問を感じませんか。

国民を諭すはずの識者の分析までが権威主義なのは、いよいよ奇妙です。「いや、日本の芸術も馬鹿にできないぞ」という反論は、「だって欧米で評価されているから」と言い出して、またしても権威主義です。いわゆる価値の逆輸入というやつ。

浮世絵もそうですね。「欧米で高い評価を受けたから」という枕詞(まくらことば)がつきものです。19世紀パリの印象派の画家たちが、浮世絵の影響を受けたから、だから浮世絵は素晴らしいと。日本の誇りだと。よく聞く言い方です。自分が浮世絵をどう評価し、どんな点が優れているかは誰も言わない。

ドイツ町内の現代アートイベントで、いいのを見つけたと町民が絵を買う、そこには自分があります。日本だと自分ががない。ネットの意見コーナーにも、自分を透明にした論法が並びます。

美術家がギャラリーの門を叩くと、ドイツなら「まず作品を見せて」、日本なら「まず受賞歴を見せて」。

「日本人て元々権威に弱いでしょ」「お上の言いなりでしょ」「自分の考えなんてないでしょ」「江戸時代からそうだし」「明治維新でさらに強まったし」の声も出そうです。いわゆる自虐的国民性の文脈でよくある理由づけです。

でも、音楽はそうなっていませんよね。業界の評価に頼ってアルバム購入を決めません。試聴してわかる前提です。「あの映画がつまらないって?、君ぃアカデミー賞だぞ」「カンヌ映画賞だぞ」と、水戸黄門ふうに言い返すのもまれ。

このように音楽も映画も、ユーザーに主体性があります。でも美術では主体性がなく、値打ち情報を外部に求めます。だから美術鑑賞ではオリジナル作品が大の苦手だし。かくも美術だけが特殊な扱いなのはなぜか。

7 なぜ日本で美術が特殊化したのか

大きかったのは内戦です。関係者への忖度で、表に出しにくいタブーですが。

日本で現代アートが二軍扱いされるのは、二軍に位置づけたからです。何者がそうしたのか?。一軍の人たちでしょう。

19世紀絵画が20世紀絵画をヘイトし、具象画家が抽象画家をヘイト、保守が前衛を、リアリズムがデフォルメをと、新進を排撃した史実があります。そして旧が新を追い落としました。

具象画はきれいだが抽象画は汚いなどと、偉い人が折々に言ったわけです。近ごろの美術はわからないからいやですねえ、不愉快ですねえ、国民の敵ですねえと、事あるごとに指導するインサイダー。有名文豪たちも現代アートへの悪口雑言を、ペンにまかせて叩きつけた時代があります。

図書館の古本バックナンバーを見ると、かつての現代アート下げ発言に出くわします。ちなみに、現代アート擁護派もまた文学畑が多め。花田清輝とか。

美術界は二分され、これが内戦の構図です。その一断面は、印象派対ピカソでした。絵画公募で排除、駅前彫刻広場で排除。行政が公の敷地に現代アートを置かせず、銅像を置いて回った理由は、わからない抽象は市民に好ましくなく、わかる具象が好ましいという回答でした。

今でたとえれば、LGBTはわからないからいやですねえと識者がつぶやき、風紀を乱す恐れで好ましくないと役所が言う感じか。これは時代が変わり、識者も役所も肯定する方向ですが。

が、新興アートの否定は堂々と行われました。井戸端の陰口ではなく、各界リーダーたちの公的発言で。新興アートの否定文言だらけだった。美術館がゴタゴタし、館長が辞職した話も聞いた方がいるでしょう。最近のあれではなく、1970年代と80年代の事件の方です。

8 芸術がわかる人を増やせば日本は伸びる

ドイツ人と日本人は似ていると言われます。たとえば35ミリフィルムカメラの製造で、二重像合致式レンジファインダーはドイツ、クイックリターンミラー式一眼レフレックスは日本と、人類の中で二国しか完成できていない製品があります。理論と技術と抑制の二国。

現代アートで二国の大差が生じたのは、日本では19世紀美術が権威となり、20世紀美術のサブ化、二軍化、B級化、格下化、オマケ扱いが実現した違いです。現代アートは若い未熟者の暴走だと、国民に定着させた。

ところが、ヘイトのバッシングをみた国民は意外な反応を示しました。美術全体を敬遠したのです。全部がいやになって距離をとった。

本来は音楽のように、世界のどんな曲でも聴いて発売して売れる活況が、美術でも起きてよいはずです。日本もドイツ程度には創作表現の伝統を持つ国だから。しかし内戦の間に「芸術はみんな嫌い」と皆でそっぽを向いた。

これは新発見ではありません。アート雑誌『芸術新潮』が、古美術派による新美術いじめが、地方美術館を悩ませている特集記事を出したのは1980年代前半でした。意外に古ネタです。

2000年代の21世紀に、世界の美術商戦は現代アート一辺倒になり、今はアメリカと中国が世界一の市場規模を競い、韓国も日本を超えたでしょう。台湾や香港も現代マーケット拠点を狙い躍進。低迷する日本をよそに。

こんな告白もありました。「祖父が買い集めた昭和の具象画が、遺産額の算定で暴落していた」という嘆きです。内戦に勝った古美術側も、リセール市場が沈み幸福になれずじまい。勝利の笑みどころか、泣いている。

「そうは言っても、日本のアートは新旧どれも皆クソだろ」という、率直な感想も出るでしょう。それは内戦がまねいた「猫に小判」です。人を猫に変えた流れが存在し、小判の質低下もその流れの結果でした。

20世紀のフランスは、サロンなど保守アートの伝統が強くて、抑圧された新興アーティストがアメリカへのがれたから、世界の現代アートの主導権はニューヨークへ移りました。

一方の日本は保守アートが法外に強く、政官財も征したので、お客となる国民の気持ちが離れたのです。いさかいの空気を嫌って。上が決めた評価を受け売りする程度の浅く遠い関係に、日本人は落ち着いたのです。

まさか共倒れとは予想外だったでしょう。新旧がリスペクトし合い、大市場を得た音楽業界と明暗を分けました。(つづく)(2018年9月10日)